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「呉服町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

呉服町(近世~近代)


江戸期~現在の町名1~3丁目がある江戸期は熊本城下古町西古町懸の一町で,明治12年熊本区,同22年から熊本市の町名となる古町のほぼ中央部を南北に走る町人町天正1...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7451697]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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呉服町(近世~近代)

江戸期~昭和44年の町名佐賀城下の1町寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ佐賀城の北に位置する北は元町に連なり,東は哂橋を境に蓮池町,西は小さな石橋を境に東魚町と接し,南は裏十間川を隔てて松原小路に対する長崎街道が通り,北の元町から南北に走り,当町の中ほどで東に右折して哂橋を境に蓮池町へと至る竈数は,承応3年佐賀城廻之絵図では61,元文5年屋敷帳では58嘉永7年呉服町竈帳の総竈数81(明家3),人数390(男203・女187),身分別竈数は家来2・徒士4・中小姓2・足軽25・職人1・被官11・仲間1・その他の有姓者2・僧1・町人29,とくに多い職種の竈数は日傭取7これによれば,身分別では町人・足軽・被官などが目立ち,職業別では荒物屋・日傭取などが多く,呉服屋は宿屋と同じく2である元町とともに佐賀城下の中心であった長崎街道を通る旅人が多く,また寛政末年からは長崎奉行の宿泊が頻繁になったので,哂橋の北西にあった新歩行野口恵助の私邸を本陣とした100坪以上の屋敷で,柵と塀を巡らし,濡門が建てられ,地子銭が免除されていた(安政2年本陣絵図・泰国院様御年譜地取)本陣跡の南西の四つ角には長崎街道の道標が現存して往時をしのばせる道標のある町角から南の欄干橋の北西部の一角に幕末のころ100坪余の町方御蔵床があり,弘化4年町方役所が買い上げて市中の備米を貯蔵するに用いた(嘉永7年呉服町竈帳)通りの北端寄りの西側の町並みの一角に銀判屋中元寺氏がいたその座敷は289坪もあり,寛政元年の巡見使も,文化9年佐賀城下を測量した伊能忠敬も注目している(寛政巡見録・測量日記)中元寺氏は,はじめ藩主のために武器の調達などに当たっていたが,のち金銀貨の鑑定や藩札との両替を営んだ(泰国院様御年譜地取)西の東魚町に近い所に皆良田氏という新徒士で御用商人の酒屋がおり,嘉永4年には藩の懸硯方の金子を鍋島市佑などの武士に知行米を抵当に貸しつけている(納富鍋島家日記)嘉永7年の竈数を宗派別に記すと,一向宗39・禅宗24・浄土宗10・法華宗6・天台宗1寺院は東西の通りの東端,哂橋の南西部に一向宗光明寺,哂橋の手前,光明寺の東側の小川沿いに北へ100mほど行くと天台宗愛宕寺がある光明寺は元禄9年の開基で,開山は宗光もと嘉瀬郷深町村にあったのを移建したものである幕末の12代住職良俊は佐賀の民謡「梅干」の作詩者として有名であるなお当寺には寛文年間以降の過去帳が残る愛宕寺は京都竹ノ内御門跡曼珠院の末寺で,開基は不明本尊は観世音如来で,寛延年間佐賀城二の丸護摩堂を開くにあたり,当寺の不動尊を移したといわれる寺地3畝6歩は免地であった現在は初代藩主鍋島勝茂が柳川の立花氏と戦った時勧請したといわれる愛宕社が中心になっていて,鳥居や八幡宮の社殿がある今も火災転除の神として町内の信仰が篤い愛宕寺の金堂は新しいが,元禄11年の青面金剛碑,文化9年の万部塔や常夜灯が現存している「旧高旧領」では高24石余とある「明治7年取調帳」では枝町に元町がある「明治11年戸口帳」によれば,戸数150・人口631明治22年佐賀市に所属昭和44年佐賀市呉服元町となる

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

呉服町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は唐津【からつ】城下の1町町田川左岸,城下町の中央部に位置し,東は中町,西は米屋町と接する唐津築城時の総町十二か町の1町で内町のうち町人地町名は,築城時大手門に直接向かい合う当町が呉服屋の軒が連なるほど繁華な町になるようにという願いから名づけられたという菊屋石崎氏は安永年間に新設された大町年寄を勤めた文化年間頃の町筋は南北1町25間,古来本軒34,当時人数158(男77・女81),引合五人組53人(うち町年寄苗字帯刀御免1・組頭2・御肴屋1・酒屋4・糀屋1),ほかに御用船問屋・質屋,安楽寺があったまた御用肴屋の市兵衛,御用豆腐屋の甚兵衛は並御目見格(松浦拾風土記)江戸期は富商が軒を連ね,煙草屋辻家は御腰物師御綿御用を勤めた呉服屋,亀屋辻家は酒造屋,具足屋山内家は木炭問屋であった真宗大谷派護念山安楽寺は豊臣秀吉の名護屋在陣中の端坊を毛利元春の三男順了が当町に移転(唐津拾風土記抄・松浦記集成)寛政11年当町ほか9町は,辻番所2か所と毎年10月から3月までの自身番の設置は負担が大きいので,辻番所1か所は夜番とし自身番も辻番所で兼ねたいと藩へ願い出ている当時は町火消し石崎支配組に所属(諸事控/唐津市史)天保15年当町の曳山「義経の兜」は4番曳山として石崎八右衛門が製作幕末に藩は百工方という役所を新設し,産物を取り扱う係り役人に当町から瀬戸屋峰新兵衛・酢屋吉村儀助を任命明治元年の軒数51・人数181(唐津市史)同3年当町の辻甚兵衛は腰物師と綿屋の株仲間筆頭であった(正円寺文書/唐津市史)唐津藩領最後の町年寄は峰新平・山内利右衛門(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)「明治11年戸口帳」では唐津町のうちに「呉服町」と見え,戸数55・人口224同11年具足屋山内準治は内町戸長・内外町戸長を勤めた明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち明治30年の人口404(唐津市史)同31年鉄道が開通し唐津駅と官庁街を結ぶ町筋に位置する当町は江戸期に引き続きにぎわい,明治末年には魚屋町の繁華街をしのぐほどとなった以来唐津市最大の繁華街として現在に至る大正末年当町中央に十七銀行唐津支店(戦後福岡銀行唐津支店と改称)が開業昭和40年代に大名小路へ移転大正4年の戸数60・人口279世帯数・人口は,大正14年50・268,昭和5年47・284,同35年56・323,同41年57・242...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

呉服町(近世~近代)
江戸期~現在の町名1~2丁目がある江戸期は萩城下28町の1つ西は南片河町,南は古萩の武家屋敷地,北は古魚店町・恵美須町・油屋町に接する当町内を藩主参勤路の本町が東西に走る1丁目は,東側の当町2丁目とは飴屋町・絹機町(伊勢屋横町),西側の南片河町とは片河筋,北側の古魚店町と油屋町とは紙屋町・八百屋町でそれぞれ区切られているまた,2丁目は,北側の恵美須町・油屋町と相首町で区切られている町名の由来は,慶長9年に毛利輝元が萩打入りの際,当町を御福町と名付けたが,そのころ長谷川宗兵衛恵休が当町と隣町8町の年寄役を勤め,呉服物を商売にしていたので,改めて呉服にせよとの命によったものという(萩諸町之旧記草案)また,一説には当町に呉服商が集住していたことにちなんだものともいう(萩市中覚書)1~2丁目に分かれる時期は明らかではないが,寛文7年に幕府巡見使が来萩した際の回答書に分かれて見える(波多野氏記録雑要集抄)宝暦元年萩大絵図付録の記録(寛延3年改)によると,1丁目は間数258間,総竈数77うち本軒16・店借57・内貸屋4,ほかに蔵19,2丁目は間数325間,総竈数107うち本軒15・店借89・内貸屋3,ほかに蔵22がある1丁目に居住した豪商菊屋家は,江戸期を通じて,しばしば藩から御当用米銀の用立を命ぜられる一方,幕府の国目付や巡見使来藩の際には本陣となったこの家は,現在菊屋家住宅として国重文に指定されている享保3年には先祖以来の勤功に対して,代々大年寄格御用聞を命ぜられた(菊屋家文書)明治12年には堀内村外9か町からなる萩北部西組を形成し,同17年には堀内村外16か町からなる萩西組に属し,1丁目に戸長役場が設置された明治16年の戸数・人口は,1丁目64・239,2丁目68・243(県の統計百年)同22年萩町,昭和7年からは萩市に属す...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

呉服町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治初年から明治22年は豊橋を冠称江戸期は吉田城下二十四町の1つで,表町のうち吉田城の南に位置し,町並みは東西に続き,東は曲尺手【かねんて】町,西は札木町に接する吉田宿伝馬役は伝馬役町・平役町として伝馬・人足を出し,貞享元年には本門33軒のうち,伝馬役門11軒で馬9.5匹,歩行役門8軒で人足8人,平役門11軒で出人足11人を負担した同5年の町並み107間2尺,道幅3間3尺,家数34正徳2年の吉田惣町差出帳によれば,家数33・人数262,庄屋は弥次右衛門寛延3年の吉田弐拾四町指出帳では家数40・人数256同年の吉田弐拾四町指出帳書抜では,高18石余,出火時出役人足16,町医者2・紺屋1・檜物師1・鞘師1・金具師1・提灯師1,年寄は儀右衛門,出水時に吉田大橋へ人足を出役造酒屋が1軒あったが,享保13年に廃業(豊橋市史)安永8年の宗淳火事で類焼文政2年の家数32,天保9年の家数33明治9年の合併村願書によれば,戸数58・人数232(徳川林政史研究所蔵)同10年の地価取調帳によれば,面積5,464坪余・地価5,904円余同17年渥美【あつみ】郡第3組戸長役場設置同22年豊橋町,同39年からは豊橋市に所属明治33年演劇場の東雲座開場昭和13年には豊橋古着商組合・豊橋興業組合の事務所があった(豊橋商工案内)同33年吉屋町・曲尺手町の各一部を編入し,一部が八町通1~5丁目・曲尺手町・新吉町・大手町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

呉服町(近世~近代)
江戸期~現在の町名明治初年~22年は亀岡を冠称江戸期は亀山城下16町の1つ亀山城築城に際し,郭内に取り込まれたもと古世村地内に古世村の住民を移住させて成立町名は呉服の同業者町の性格を持たされたことによる横町の中ほどから続く東西118間の町並み西は矢田町,横町をはさんで東は突抜町郭内に組み込まれた古世村地内には当町のほか竪町・横町・突抜町・京町・旅籠町の各城下町が形成されたが,このうち竪町・横町・突抜町は当町と同様古世村民が移住して成立したこの3か町はまとまって古世町と称されたが,当町のみは単独で町名主を置き町役の負担をしている(矢田社之祭法)「桑下漫録」では家数52,工商が混ざるものの人家の大半は農家という矢田社の祭礼に使用する山鉾の1つ浦島山がある同山には寛政7年9月付の水引が残っている(亀岡市史)明治4年亀岡県を経て京都府桑田郡,同12年南桑田郡に所属同21年の戸数27(市町村合併史)同22年亀岡町の大字となり,昭和29年まで亀岡町呉服と称す同30年から亀岡市呉服町となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

呉服町(近世~近代)
江戸期~昭和39年の町名江戸期は福岡城下六町筋の1町那珂川下流左岸,福岡城の東に位置する東は上名島町,西は本町に続く町名は,慶長年間町立てされて呉服商が居住したことに由来する(続風土記)元禄3年の家数57(同前),文化3年の家数74・人数317,間数245間余(文化9年福岡・博多地図)寛政年間には土屋(呉服商)・岩井(鎧師)・小松(表具師)・是松(乗物師)などの播磨国出身の商工業者が住んだ(続風土記付録・続風土記拾遺)文政2年西職人町から出火した火災で残らず焼失した(加瀬家記録)町は東西2町14間,南北44間,道幅は2間5尺余東の横町を風呂屋1町,西の横町を黒茶町と通称した明治11年福岡区に所属同12年の戸数89・人口461(男221・女240),民業は工31戸・商36戸・雑7戸,物産は人力車・荷車・履物類・筆など(福岡区地誌)明治18年日本基督教団の教会堂が建ち,英和女学校(福岡女学院の前身)が開校同22年福岡市に所属昭和39年大名1~2丁目・舞鶴1~3丁目・赤坂1~2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

呉服町(近世~近代)
江戸期~昭和41年の町名江戸期は名古屋城下の1町町人町の1つ七間町の東にある南北道路呉服町筋の北端に位置する京町筋から杉ノ町筋までの間の2丁慶長年間清須から移った清須越の町享保年間の家数62,町役銀1貫876匁(名府予録)町内には植物学者の伊藤圭介がいた(金鱗九十九之塵)氏神は郭内天王社(名古屋府城志)東照祭には警固の衆,普化僧14人を出す(名古屋祭)明治4年常盤町を合併明治11年名古屋区,同22年名古屋市,同41年同市東区,昭和19年同市栄区,同20年からは同市中区に所属同41年丸の内1~3丁目・錦1~3丁目となる...

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呉服町(近世~近代)
江戸期~昭和3年の町名西は外堀に面し,現在の永代通りをはさんで位置した町名は呉服御用達商後藤縫殿助の屋敷があったことにより,外堀に架かっていた呉服橋もこれに由来する町内には酒問屋が多く(続砂子),また江戸地割役,樽屋三右衛門の宅があったことから樽新道【たるしんみち】の里俗称があった(備考)明治元年東京府に所属同2年呉服町新道を合併同5年の戸数273・人口1,405(府志料)同11年日本橋区に所属昭和3年,通【とおり】1~2丁目・呉服橋1~2丁目に編入現行の日本橋1~2丁目・八重洲【やえす】1丁目のうち...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

呉服町(近世~近代)
江戸期~昭和38年の町名江戸期は盛岡城下の一町町人地古くは新町,中町といい,文化9年呉服町と改められた城東地区に属し,中津川左岸に位置する盛岡藩が幕府に届け出た盛岡二十三町の1つで,改称後も幕府には新町として届け出ている天明8年の家数26・人数284(邦内郷村志)町の規模は2町,毎月26日が市日であった(盛岡砂子)明治8年の戸数45(盛岡市史)明治4年東中野村の字名,同22年盛岡市東中野の字名,昭和20年からは盛岡市の町名となる同26年の世帯数63・人口303(男142・女161)同38年肴町・中ノ橋通1丁目となる...

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呉服町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は鹿児島城下下町のうち明治22年からは鹿児島市の町名北は金生町,東は堀江町,南は新町に接する(県地誌)明治10年代の戸籍簿による戸数564,うち士族36・平民528,職業は無職5・不明39・農業2・雑業368・工16・大工1・木工1・染物2・商115・小間物1・洋物2・魚仲買2・下駄1・砂糖3・煮売1・果物3(鹿児島市史)明治41年の戸数145・人口609世帯数・人口は,大正11年122世帯・820人,昭和10年128世帯・795人...

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