ケータイ辞書JLogosロゴ 御領村(近世)


熊本県>不知火町

 江戸期〜明治22年の村名。宇土郡のうち。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」632石余,「正保郷帳」も同高でうち田403石余・畠229石余,「天保郷帳」635石余,「旧高旧領」643石余。「肥後国誌」によれば松山手永に属し,高610石余,「里俗御領町ト云」と見える。当村は,薩摩街道からの富岡往還・小曽部道・砥用往還の分岐点にあたる交通の要地で,宿町の扱いを受け,地子を免除され,運上銀・冥加金を納めた。大木戸によって他と分けられ,高札もたてられていた。また松山手永の惣庄屋役宅や手代などの役宅も置かれていた(田中寿男氏所蔵絵図など)。鎮守は菅原神社。貞享元年東原に建立されたが,文久3年に現在地園田に移された。寺院は浄土真宗光明寺派専立寺が園田にあったが,明治18年廃寺となった。熊本県,八代県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。同10年の西南戦争に際し,薩摩軍の手で焼物屋・舟宿が焼かれている。「郡村誌」によれば,田26町6反余・畑21町6反余,戸数73・人数347,馬15,日本形船6,物産は米・大豆・小豆・小麦・裸麦・粱・蕎麦・甘藷・蘿蔔・鎌・鍬・土焼火鉢など,民業は農業65戸・鍛冶職2戸など。同21年の戸数86・人口362(県公文類纂/県立図書館蔵文書)。同22年不知火村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451729
最終更新日:2009-03-01




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