ケータイ辞書JLogosロゴ 島子村(中世)


熊本県>有明町

 南北朝期〜戦国期に見える村名。天草郡のうち。応安3年9月12日の足利将軍(義詮)家下文(詫摩文書/県史料中世5)によれば,勲功の賞として「島子村」が多比良木工助通時の領する3分の1を除いて詫磨氏直に宛行われている。応安6年の追筆を有する8月9日付の九州探題今川了俊(貞世)安堵状(同前)によれば,「島子村」は詫磨五郎(親氏)に安堵されている。しかし,至徳3年の追筆を有する10月11日付の九州探題今川了俊書下(同前)によれば,了俊は奉行人大友親世に対して,「島子村」を親氏に沙汰付けさせ,もし,問題があれば糺明したうえで申告すべきことを申し送っているが,10月26日付および10月28日付の大友親世書状(同前)では,親世は親氏に対し,現在敵と対陣中であるので,静謐ののちに沙汰すると返答している。至徳4年5月10日の散位某書下(同前)によれば,天草三郎種世が当村を押妨するので,これを停止して親氏に沙汰付けするように命じている。なお,大蔵系図(続群7下)は種世について,「本砥・亀川・河内浦・大江・島子相伝也」とする。その後,応永6年3月5日の戸賀崎氏範施行状(詫摩文書/県史料中世5)によれば,鳥羽左京・宮河中務丞に対して,「肥後国六ケ庄内志那子・桑原・安永三ケ村,鹿子木庄内小河伊豆三郎跡,并成吉名波多村,菊池郡内巻河加江村,天草郡内島子・志加木両村等」を去年10月13日の御教書の旨に任せて,下地を詫磨別当方代官に打ち渡すよう命じている。戦国期の永正2年の申次某書状写(志岐文書/県史料中世4)には,「天草大夫跡之内,本砥・島子之事」について「島子村之事,上津浦上総介江被仰出候」とあり,上津浦氏に宛行われている。「八代日記」永禄元年3月16日条に「上津浦ヨリ棚底ニ動,島子ヨリ下津浦ニ動候」,同8年6月28日条に「志岐・栖本・有馬・和泉同前ニテ天草島子ニ動候」とあり,天草氏と上津浦氏の所領争いの場となっている。なお同書同7年6月27日条によれば,「上津浦ヨリ,小島子・下砥岐天草殿ヨリ御去進られ候間,今日知行之由,七月五日ニ八代ニ注進」とあり,当地内の小島子が天草氏から上津浦氏に譲られたことがわかる。なお慶長国絵図(永青文庫)には「島子」と見えるが,江戸期には大島子・小島子の2か村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451935
最終更新日:2009-03-01




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