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- 下浦村(近世)とは
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下浦村(近世) 江戸期の村名豊後国海部【あまべ】郡佐伯【さいき】荘のうち佐伯藩領鶴見半島南岸域から宮崎県境までの豊後水道に面した県南の海岸地帯に位置する成立時期は未詳慶長16年の御検地目録・竿水帳目録などに見える竹野浦組が,のち米水津浦【よのうづうら】組・入津浦【にゆうづうら】組・蒲江浦【かまえうら】組となり,この3組を総称して下浦村と称した米水津浦組は色利【いろり】浦・浦代【うらしろ】浦・竹野【たけの】浦・小浦・宮野【みやの】浦で,入津浦組は畑野浦・楠本【くすもと】浦・竹野浦河内・西野【にしの】浦で,蒲江浦は泊【とまり】浦・河内浦・猪串【いのくし】浦・坪【つぼ】・野々河内【ののかわち】浦・森崎【もりざき】浦・丸市尾【まるいちび】浦・葛原【かずらはら】浦・波当津【はとうづ】浦で構成される(仮名付帳)村高は「正保郷帳」には村名はなく,浦代浦35石余・竹野浦9石余・小浦3石余・色利浦9石余・宮野浦2石余・畑之浦53石余・楠本浦13石・竹野浦河内22石余・西野浦39石余・泊浦67石余・河内浦57石余・猪串浦20石余・野々河内村37石余・森崎浦43石余・九(丸か)市火(尾か)浦33石余・葛原浦63石余・波嶋津浦39石の計544石余「見稲簿」,貞享元年の「佐伯荘郷村之帳」ではともに550石余,延享3年「佐伯領高辻帳」ではほかに新田畑131石余を記す「天保郷帳」1,560石余「旧高旧領」では各浦ごとに分記文化7年の家数1,190・人数8,501,生業は鰯漁を中心とする干鰯生産で,慶長~元和年間に藩では漁場保護や荒地開発などを積極的に推進した(温故知新録)文化7年3~4月伊能忠敬が当村域内を測量(九州測量日記)明治4年大分県に所属明治初期に当村は消滅現在の南海部郡蒲江町・米水津村のうち |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
下浦村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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下浦村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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