ケータイ辞書JLogosロゴ 下沖須村(近世)


熊本県>岱明町

 江戸期〜明治9年の村名。玉名郡のうち。腹赤村から分村して成立。熊本藩領。村高は「旧高旧領」88石余。寛永12年,村内にキリシタン3人(吉田休閑・北川宇左衛門・与三左衛門)が住んでいた(岱明町地方史)。沖洲村の出村として成立。分村後,上沖洲村を単に沖洲,当村を新浜とも呼んだ。元禄国絵図(永青文庫)に,「原賀村ノ内下沖洲村」と見え,元禄年間までに原賀村(腹赤村)から沖洲村が分村,さらに上沖洲村・下沖洲村に分かれたと思われる。「肥集録」(肥後国地誌集)は上沖洲村を荒尾手永,下沖洲村を坂下手永と記す。「肥後国誌」では,腹赤村のうちと見え,荒尾手永に属し,高51石余,歳徳神・観音堂のほか,塩浜が記される。なお同書は荒尾手永に属すとするが,これは上沖洲村・下沖洲村分村以前のことを示している。宝暦年間頃の塩田は9町3反余,沖塩には製塩用の石炭を売る役所があり,幅1.5間〜2間の塩取溝があった。生産した塩は河舟で菊池川を上り,菊池・鹿本方面に売られていた(岱明町地方史)。文政年間に村内の河堤に櫨の木が植えられた。寛政4年の肥前島原の雲仙岳の爆発により大津波が来襲,溺死者多数を出し,生存者は160人余で,扇崎村内に移住したという。天保15年の坂下手永略反別手鑑帳(多田隈文書)によれば,田1町6反余・畑17町3反余,竈数70・人数347,馬25。行末川の新川が嘉永年間上・下沖洲の間に開削され,その川尻が新川港となった。西南戦争に際して同港は政府軍の上陸地となった。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。明治8年沖洲東小学校が開校,のち同11年の生徒数30(同前)。明治9年沖洲村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451989
最終更新日:2009-03-01




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