ケータイ辞書JLogosロゴ 下梶屋村(近世)


熊本県>鹿本町

江戸期〜明治8年の村名はじめ玉名郡,明治3年からは山鹿郡のうち内田川と迫間川の合流点あたり,内田川右岸に位置する熊本藩領慶長13年の検地帳(県立図書館蔵文書)では上梶屋村と合わせて「鍛冶屋村」とある同帳によれば,高710石余,家数44・人数55,馬6・牛4村高は「旧高旧領」347石余「肥後国誌」によれば中富手永に属し,高334石余また文化11年の中富手永手鑑(肥後藩の経済構造)によれば,高347石,反別は田21町8反余・畑4町3反余,家数37・人数148,馬38,小村に前田・西田・北田・中又・宮ノ本・川原・中川原などがあるが,その耕地は上梶屋村と錯綜していた当村や上梶屋村は,安永初年までは藩内でも疲弊した村々であったが,安永年間中富手永惣庄屋新野尾清左衛門の再建施策により立ち直り,また寛政2年には子の伊平が新井手4筋を掘り,二毛作地も増加した氏神は大竜宮,「鹿本町史」によれば宝徳元年砦村寺町神社の分霊として勧請したという熊本県を経て,明治5年白川県に所属同8年梶屋村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7451997
最終更新日:2009-03-01




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