ケータイ辞書JLogosロゴ 下竹原郷(中世)


熊本県>阿蘇町

南北朝期〜戦国期に見える郷名阿蘇郡西郷のうち地名としては鎌倉期から見え,元徳2年正月14日の阿蘇社造営料木第三箇度切符写(阿蘇文書/大日古13‐1)に「一,下竹原」とあるのが初見で,四宮の庇縁椽29支を納めているこの時の造営では,同年2月23日の阿蘇社造営料木注文写(同前)によると,四宮の庇の材木1本を納めていた郷名の初見は,建武3年3月11日の阿蘇社領郷村注文写(同前)で,下田常陸介沙汰分の西郷の1つに「一所五町 下竹原郷」と見える正平7年2月吉日の阿蘇社上葺等次第(同前)では,南坂梨など6か所とともに「二宮之上葺之分」を勤めている至徳2年8月7日の阿蘇社領郷々注文(同前)には「一所しもたかわら一けふん」とあり,1家分すなわち10町のうち,1町7反4丈は御米田,5町は南郷大宮司惟村ならびに「なかゝ」の代官として五大夫が知行しており,「四ふん一」は「かちひやうへたらう御おん」で,「十ふん一」は上竹原郷にあるとされるなおこの「四ふん一」がのちの四分一村へつながる下って,応永9年卯月日の阿蘇社造営料木郷村支配注文案(同前)には「下たけはらのかう分」として料木7支が宛て課されているなお,同11年11月3日の阿蘇社領宮地居取田并郷々御米田算用状(同前)には「□竹原郷」とあり,これだけでは上・下どちらにあたるか不明であるが,田数4町4段3丈のうち定田1町2反1丈,除田3町1反2丈であった同16年9月26日の阿蘇社領権大宮司方催促方田数坪付注文(同前)には「一,下たかわらのかう 一大夫方ちきやう」とあり,5町と四分一村(4町)とに分かれているが,知行人は両方とも一大夫方であったまた同16年9月日の肥後湯浦郷坪付山野境等注文写(同前)では「下竹原之田地坪付之事」として10か所,計3町7反4丈,次に「四分一ノ村坪付」として7か所,計2町8反2丈中が記されており,四分一村の分立がうかがえ,地頭土貢分として「加用卅日」の定公事料2貫500文,所当米1石2斗,その他多くの銭・米・小豆などが課せられ,中司土貢として鍬,料木などが課せられているまた同年9月日の肥後湯浦郷阿蘇社役注文(同前)には,湯浦西郷の社役として「一所下竹原五町」とあり,流鏑馬の時の的立て1人を小倉郷の寄子として勤め,御田会の際も小倉郷の寄子として諸役を勤めるようになっていた文安5年8月18日の阿蘇社造営木屋勤仕人数番定(同前)によれば,当地は竹原下野守の知行地であった下って,文明11年12月17日の阿蘇社領宮地居取田検見馬上帳(同前)には「下竹原郷」として,9か所,計3町8反が記されており,そのうち不作が5反あるこのうち前記応永16年9月日の坪付山野等境注文と同一の字名・田積をもつものが7か所あり,またそのうち3か所は同注文には四分一村坪付に記されていた造営役としては,天文14年10月20日の阿蘇社対面所造営料木切符次第写(同前/大日古13‐2)には「下竹原五町」とあり,野中などと寄合で料木を納めているまた同23年8月7日の阿蘇社造営料木郷々支配注文(同前/大日古13‐1)でも「蔵原・下竹原之分」として料木を宛て課され,当郷が中世を通じて阿蘇社造営役を勤めていたことが知られる江戸期には上竹原郷と合わせて竹原村となり,現在の阿蘇町竹原のうちに比定される
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7452044
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ