ケータイ辞書JLogosロゴ 下津久礼村(近世)


熊本県>菊陽町

江戸期〜明治9年の村名合志【こうし】郡のうち白川中流右岸に位置する熊本藩領村高は,「寛永郷帳」391石余,「正保郷帳」も同高ですべて畠方,「天保郷帳」589石余,「旧高旧領」では「上津久連村」と見え929石余はじめ津久礼組に属す「肥後国誌」では大津手永に属し,高688石余,小村に出分村・今石村が見え,氏神は山王社で,地内には今石城跡があり,合志家全盛時の竹迫【たかば】城南手の砦で,城主石原右馬亮預りであったというまた集落は,はじめ白川沿いにあったが,延宝初年に久保田往還沿いへ移動したという江戸期に入り,下井手・上井手の余水と天和3年の津久礼井手の開削によって62町の水田が開かれたという(肥後藩農業水利史)慶長9年の検地帳(県立図書館蔵文書)によれば,水田はなく,屋敷数24,畠・屋敷56町余,分米391石余同13年の検地帳(同前)では,屋敷数26,家数45・人数47(男25・女22),馬9・牛12,畠・屋敷70町8反余,その分米536石余寛永10年の人畜改帳では,戸数13,畠高380石余,人数は男62・女44,牛20・馬19,家数90,屋敷反別1町6反余,庄屋は九郎兵衛で,ほかに下津久礼村出分として,戸数3,畠高168石余,人数17(男8・女9),牛3・馬2,家数13,屋敷反別3反余で,庄屋は藤右衛門寛永12年の田畠地撫帳(同前)では,田6町4反余・103石余,畑26町9反余・257石余宝暦14年の田畑下名帳(同前)によれば,田畑給知46町3反余・688石余,新地出高永荒等52町8反余・188石余,野開等10町5反余寛政7年の大津手永略手鑑(肥後藩の農村構造)によれば,高688石余,田9町余・畑37町2反余,士席浪人衆2人,商札2枚が許されていた熊本県を経て,明治5年白川県に所属同9年津久礼村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7452067
最終更新日:2009-03-01




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