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- 下長田村(近世)とは
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![]() | 下長田村(近世) 江戸期~明治9年の村名筑後国下妻郡のうち矢部川下流左岸に広がる平野の東北端に位置し,清水連山の一画,横尾寺山の山間部も含む幕末~明治初年南長田村より分村して成立柳川藩領本郷組に属す文禄4年筑後国知行方目録,「元禄国絵図」「天保郷帳」には村名は見えず,「旧高旧領」に村高1,132石余とある明治5年の反別は84町3反余(郡郷/立花家文書)村社の横尾寺山中腹の日子神社はもと女山地区が管理していたが,明治初期下長田の行政区画に入れられ下長田の氏神となった例祭は3月15日で,御田植祭・粥だめしが行われるほかに八竜の八竜神社,二池田の若宮神社がある天台宗延暦寺派横尾寺は弘仁年間伝教大師の開基と伝え,往時は僧坊も多く檀家は千余戸あったというが,天正年間兵火にかかり焼失,寛永2年僧隆英が再興真宗西派浄弘寺は正保2年水田村より移したもの伝敬寺(もと真言宗浄円寺)は寛政8年僧公全により真宗東派に改宗,文政6年再び西派西方寺配下となる明治9年長田村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」