ケータイ辞書JLogosロゴ 下仲間村(近世)


熊本県>嘉島町

 江戸期〜明治22年の村名。上益城【かみましき】郡のうち。下中間村とも書く。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」694石余,「正保郷帳」も同高でうち田500石余・畠194石余,「天保郷帳」も同高,「旧高旧領」808石余。「肥後国誌」では鯰手永に属し,高792石余,天満宮・権現宮と浄土真宗西派光勝寺・浄土真宗東派浄尊寺がある。文政8年頃の益城上郡手鑑によれば,高793石余,反別は田37町余・畑13町余,家数82・人数362,馬53(綾部家旧蔵文書)。字居屋敷の光勝寺は寛永17年の創建で,はじめ下仲間にあった。同寺はもと遠州浜松城主下津下総守服部光勝が徳川3代将軍に仕え,過失により流浪の身となって西国に下り,金峰山の南方,緑川の近くに移り住んで,法名を玄秀と改め自身の名をもって光勝寺と号したという(上益城郡誌)。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。「郡村誌」によれば,田57町3反余・畑11町余,戸数94・人数490,馬53,日本形船30うち50石未満荷船23・漁船7,字江頭に人民共立小学校があり,生徒数は男52・女10,物産は米・裸麦・小麦など,民業は農業64戸・木挽職7戸・桶職7戸など。明治22年大川村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7452083
最終更新日:2009-03-01




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