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- 下平山村(近世)とは
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下平山村(近世) 江戸期~明治7年の村名山鹿郡のうち菊池川支流岩村川の中流,三ツ尾山南麓に位置する熊本藩領村高は「旧高旧領」595石余もとは平山村の一部で,同村が上・下2か村に分かれて成立分村の年代は未詳ただし古くから下平山・上平山に分けて呼ばれたらしく,天正17年の下平山村検地帳(県立図書館蔵文書)が現存する同帳による高508石余・反別51町1反余,うち田が410石余・33町6反余,畠が97石余・17町5反余(山鹿市史)「肥後国志草稿」によれば山鹿手永に属し,小村に野中村・中原村・小原村・釘ノ尾村・湯山村・原村・篠原村・内野村・後岳村・八木村などがある(同前)「肥後国誌」は,この村を上平山村とし,「肥後国志草稿」が上平山村にあたるとする平山村に「里俗下平山卜云」と付すその高は544石余,小村に湯山村・西福寺村・二板村・前河内村・後河内村・上ノ原村などがある文政9年の山鹿手永高物成并惣軒数等書付(肥後国郷村明細帳2)では,竈数83・人数429,馬77,商札1枚,出小屋1軒・造酒屋1軒,給人6人などとある熊本県を経て,明治5年白川県に所属同7年平山村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」