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「下村(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

下村(中世)


南北朝期~戦国期に見える村名球磨【くま】郡久米郷西方のうち2通の観応2年7月18日の一色範氏地頭職充行状(相良家文書/大日古5‐1)に「肥後国球磨郡久米郷西方下...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7452145]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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下村(中世)

 鎌倉期~室町期に見える村名

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下村(中世)
 鎌倉期~戦国期に見える村名...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

下村(中世)
南北朝期~戦国期に見える村名那賀郡鞆淵荘のうち正平14年11月日の鞆淵荘下村仏神田注文(鞆淵八幡神社文書/県史中世1)に「下村分」とあるのが初見当村の仏田として孝子堂・箭那せノ堂・大西堂・大和田堂など3反40歩,神田として室谷口社・上垣内社・大和田社の御供料田1反30歩が記載されているこれより以前,鞆淵荘では「トモブチ動乱」といわれた下司と百姓の争いがあり,観応2年高野山の仲介で和談が成立し,各村の仏神田が配分されているその後正長元年に至って高野山はようやく大検注を実施するが,それをもとに作成された正長~享徳年間ごろと推定される年月日欠の鞆淵荘下村歩付帳(同前)は名寄帳形式で書かれており,「キヤウシ」「アタラシ」「ヤナセ」「ウエノカイト」「上垣内大禅寺」「大西」「ハタノ」などの小字名が見えるついで宝徳2年3月23日の同荘公文分栗地子帳(同前)には「下村栗地子」として計1,416文書きあげられ,「ケウシ」「アタラシ」「ミソハタ」「ヒラノ」「ヤナセ」「上カイト」「タシリ」「ヲホニシ」「イマキタ」「ハタノ」「ミナミ」「ヒカシ」「キタ」「中イヘ」「とうやう」「キタサコ」「ミヤウケウ」「タイナカ」「イワタ」「今中」などの字名が記載されているまた同3年10月5日の同荘小和田・下村納帳(同前)には上記の字の他に「イノ上」「マトハ」「ムロ谷」などの字名が見え,合計上田6反余・中田12反余・下田19反余,上畑5反弱の田畑が1筆ごとに書き上げられている下って天正15年11月30日および同17年12月23日の鞆淵荘納帳(同前)には鞆淵荘を構成する村の1つとして「シモムラ」とあり,「キヤウシノマエ」「シロイ」「アタラシノ上」「中シヤウフヘヤ」「ヲウヤ」「キタカイト」「ヒラハヤシ」などの字名が見える上記の字名のうち「続風土記」には大西村・畑野村・京石【きようし】村が,また大善寺村の小名新が見え,現在の粉河【こかわ】町中鞆渕の境石,下鞆渕の平野原・新子・上ノ垣内【うえのがいと】・大西・畑野などの字に比定される...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

下村(中世)
鎌倉期~戦国期に見える村名豊後国大野郡大野荘のうち現在の大野町の東部,大字田中から東北一帯に位置する大野荘4村の1つで,上村・中村に対して,大野川の下流域に位置するので下村と称した延応2年4月6日の尼深妙惣配分状に「九郎入道分 同庄内下村地頭職〈但故豊前々司墓堂寄附院主職也〉」とある(志賀文書/大友史料2)九郎入道は大友能直の11子豊前能基(職)で,入道して明真房と称した当村の勝光寺には大友能直の墓堂があり,それに接する小原には俗に「とまりごう」と呼ばれるところがあり,妻深妙の逆修墓である墓堂の設けられた泊寺があった明真房は二親の現当二世の菩提を弔う目的で,この寺に入寺させられ下村地頭職を受けた下村が大野荘の中でも,大友氏にとっては精神的中心地であったことがわかる泊寺院主職兼地頭職は明真房から甥の志賀禅季に譲り,禅季はこれを大野太郎基直後家尼善阿に沽却したが,永仁徳政令で取り戻し,兄志賀泰朝に譲って死んだ泰朝の子貞朝は元徳2年3月25日これを氏寺である通玄山法寿寺に寄進した(志賀文書/大友史料4)下村は「弘安図田帳」では100町歩あり,うち69町余は大野太郎基直,22町余は基直妹,5町余は姻族らしい善広衡子息鶴丸,3町余を大友親秀の子僧良慶が知行している鎌倉末期ごろ,領家三聖寺と地頭との間に,下地中分が行われている(三聖寺文書/大野荘史料)浅草八幡が当村の鎮守であった大字藤北の常忠寺の五輪塔は大友氏の始祖能直の墓と伝えられ,文政5年閏11月,大友一族で唯一の江戸期の大名として残った筑後柳川藩主立花氏(鑑賢か)が顕彰碑を立てたが,この塔は新しく,勝光寺が能直墓堂址と思われる4か村を請料300貫文で,大友宗麟・同義統が三聖寺に対して請け負い,天正年間まで銀子を送っている(同前)天正15年8月13日まで,「大野社四ケ村」が見える(志賀四郎文書/大野荘史料)...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

下村(中世)
鎌倉期に見える村名因幡【いなば】国気多【けた】郡日置郷のうち日置下郷と同意か弘安4年12月28日将軍〈惟康親王〉家政所下文案(竹内文平氏所蔵御領目録裏文書/鎌遺14527)に「因幡国日置郷内下村」と見えるこれは鎌倉幕府が山内首藤通茂の所領を安堵したもので,山内通茂は父是通の譲状に従って下村地頭職の知行を安堵されているしかし,山内氏がいつどのようにして下村地頭職を得たのかは明らかでない年月日未詳関東下知状(竹内文平文書/鎌遺14761)では,弘安5年12月27日の山内通茂の譲状に従って,その子山内通増の所領が安堵されており,この中に「因幡国日置郷下村内岩子下野宇賀宇河伊宇久尾潮津村長延寺薬師堂河以東新田」が見える下村以下の記述の具体的な内容は明確でないが,潮津【うしおづ】村は現在の青谷町青谷の夏泊【なつどまり】周辺に位置していたことが知られているから,日置川河口付近から夏泊にかけての日本海沿岸部が当村の領域だったのではないかと推定される下村に対応する上村の存在を史料によって確かめることはできないが,貞和6年12月25日足利直冬下文(余瀬文書/大友編年史料17)において,友枝宗高は「日置郷〈山内彦次郎土貢五百貫〉地頭職」を宛行われており,あるいはここに見える「山内彦次郎」がさきの文書にいう山内通増の子孫にあたるのかもしれないもしそうであるならば,応永7年正月24日因幡守護山名氏冬遵行状(華頂要略/大日料7-4)において鞍馬寺が宛行われた「日置上郷」が当村に対応する「日置郷上村」に相当すると考えることもできる日置郷上村=日置上郷,日置郷下村=日置下郷ということになる当村内に潮津村などが含まれていることから考えても上記の推測には一応の妥当性が考えられるが,その詳しい検討は今後の課題である...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

下村(中世)
鎌倉期~戦国期に見える村名飽田【あきた】郡鹿子木西荘のうち建治元年8月14日の関東御教書案(兒玉韞採集文書/鎌遺11994)に「肥後国鹿子木西庄下村地頭安芸木工助定時」とあり,当村地頭安芸定時の訴えた荷村名主越前房永秀が所勘に従わないことについて,幕府は少弐経資にその調査を命じている下って,元徳4年2月13日の沙弥道覚所領処分状案(三池文書/県史料中世4)によれば,嫡子木工助貞鑑に譲与したなかに「肥後国鹿子木西庄下村地頭職」が見える元徳2年11月6日の鎮西下知状案(武家雲箋/天満宮史料10)によれば,「鹿子木西庄下村内勘納田地拾捌町,屋敷除廻事」について安芸貞清後家尼真如代宗覚と前記道覚の子安芸貞政法師代康信との間に相論があり,同年7月8日に和与が成立したことが知られるその和与の内容は,貞政法師方から前記の田地18町のうち6町を真如に避り与えること,そのうち「参段壱杖秋鯰〈北里〉,伍段壱杖河原田・四段参杖甲津迫・弐段滑・壱町白土」の2町5反は永代知行,「参段岩廻・壱杖同名・壱段壱町(ママ)除町・壱段四町(ママ)秋鯰〈南里〉・伍段餅田・四段同名・壱段石場・壱段壱杖立石・七段藍田・伍段島廻・壱段参杖野依・弐段目打佐水〈西里〉・壱段東崎〈北里〉」の3町5反は真如一期ののち貞政法師が知行することに定められていた南北朝期,建武3年3月25日の沙弥道喜譲状(新編会津風土記/大日料6-3)では,当村などが嫡子安芸貞元に譲られた下って戦国期の天文4年の年紀を有する年月日未詳の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書/県史料中世1)に,「鹿子木西庄」のうちとして「十七町 〈活亀之内〉下村」とある現在の熊本市貢・池亀町付近一帯と推定される...

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下村(中世)
鎌倉期~室町期に見える村名大隅国鹿屋【かのや】院のうち元徳2年の鹿屋院惣地頭代押領田在家山野注文に「一,久木本市地䉼事 銭百十四貫 是者下村地頭代官,自正和元年至元徳二年十九ケ年抑留分,一年別六貫文宛」と見え,「下村地頭代官」が久木本市地料を19年間にわたって抑留していたことが知られる(鹿屋氏文書/旧記雑録)次いで文和5年2月21日付僧耀源譲状に「一大隅国鹿屋院下村図師職」とあり,姫松丸に譲られている(岸良氏文書/同前)応永7年正月25日付の鹿屋周防守忠兼宛島津元久宛行状にも「嶋津庄大隅方鹿屋院内下村弁分,中村池上名弁分,田上名堀内,為本領上者,地頭領家職事,一曲所宛行也」とあり,同年8月7日付の同じく宛行状には「大隅国鹿屋院下村地頭職事」とある(鹿屋氏文書/同前)江戸期の下名村にあたるなお,元徳2年の注文には,久木本源藤次園・田崎・田貫社・専当守重園(千堂屋敷)・野間(野間池)・青木など,地内の小地名・園名・神社名が見えるこのうち久木本市は鹿屋院の市場で,大隅国における中世市場の史料としてはこれが初見とされる市地料徴収者が下村地頭代であったらしいことなどから,市の場所は近世下名(田崎)村の西端,現在の市街地南部に比定される近くの国鉄鹿屋駅南背後に国司山と呼ばれる小丘があり(昭和50年頃宅地化),田貫社にも近く,また付近の老神で宋銭が大量に出土するなど,一帯は鹿屋院の中心地であったものと思われる...

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下村(中世)
南北朝期~戦国期に見える村名河内国茨田【まつた】郡のうち建武元年4月10日の後醍醐天皇綸旨(三浦文書/大日料6-1)に「河内国西比野荘新田・下村,同国中村西郷地頭職事」とあって,勲功賞として三浦林四郎に宛行っているのが初見次いで,建武4年8月29日の足利尊氏下文(前田家所蔵文書/大日料6-4)には「下 三浦林四郎盛安 跡 可令早領知河内国西比野庄内新田・下村,同国中村西郷地頭職事」とあり,三浦林四郎の遺族に宛行っている暦応4年閏4月17日の足利直義下知状(同前/大日料6-6)には「可令早紙屋川三位〈教氏〉為河内国西氷野庄内新田村并下村等地頭職事,右任元亨元年三月廿三日安堵状,守先例可致沙汰」とあり,元亨元年にも紙屋川教氏に安堵された旨が記されているしかし,延文5年7月16日の沙弥某渡状(三浦文書/大日料6-23)には「三浦兵衛丸申,河内国新田・下村地頭職事」とあり,幕府により三浦兵衛丸に安堵されているまた,「北野社家日記」の明応2年2月23日条(纂集)に北野社領の「八ケ所村々名事」に「下村」と見え,ほかに「新田」「東日野」が見られる比定地は現在の大東市新田本町近辺と思われるが,未詳...

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下村(中世)
室町期に見える村名摂津国西成【にしなり】郡福島荘のうち寛正2年12月26日の中嶋崇禅寺領目録(崇禅寺文書/吹田市史4)に「福嶋村 新衛門分〈下〉左近大(ママ)郎元右馬大郎〈頭成新堤内〉一段〈東道,南下村宝西作,西類地下村心道作〉」とあるのが初見国人あるいは守護被官と思われる新衛門の福島村内の所領が闕所化されて崇禅寺領となっており,そのうちの頭成新堤の田地1反を当村の左近太郎が耕作しているこの地の南隣・西隣の地も各々当村の宝西と心道が耕作している下村なる記載は,もと国人領であった寺領のうち,福島村内の所領を記した部分にのみその所領を耕作する作人の居住地として集中して見られ,また同様に「上村」「中村」の記載も福島村に見られるしたがって,当村は福島村内の集落かあるいは福島村が上・中・下の3か村に分かれたうちの1か村かと推定される福島村内の新衛門分の田地を当村の左近太郎・心道・教法・左近五郎・衛門三郎らが,同塚田分を道善・新五郎らが,同平田分を衛門三郎・道歓らがそれぞれ耕作している現在の大阪市福島区のうちに比定されるが,詳細は不明...

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下村(中世)
鎌倉期~戦国期に見える村名播磨国神東郡蔭山荘のうち永仁5年8月日の御所大番役定書案に「かけやましもむら」が見え,当村は5月の京都御所大番役が定められている(九条家文書5/図書寮叢刊)下って,応永3年4月九条経教は松田秀長の預所とし,二人の姫君の養育料に宛てている(同前1/同前)応永32年9月日の蔭山荘惣田数注文案には「十二町六段十代十八歩 下村福永」と見えるその後,文安4年当村の本所分は十輪院朗厳の所領として安堵され,文安4年8月13日朗厳はこれを証聞院公瑜に譲渡したその後,当村の本所分は成身院領となったとみられ,長禄3年11月8日室町幕府は代官田結庄豊房を退け,成身院の直務とするよう命じているが,結局寛正2年12月3日田結庄豊房は毎年10貫文を成身院へ納入することで当村本所分の代官を請け負っている文明3年12月21日成身院経誉は当村本所分を成身院公遍に譲渡したが,年未詳9月25日の成身院公遍書状によれば,年貢の未進が多くなっていた(同前2/同前)現在の姫路市船津町付近に比定される...

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下村(中世)
 鎌倉期から見える村名...

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