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- 下山田村(近世)とは
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![]() | 下山田村(近世) 江戸期~明治9年の村名閉伊【へい】郡のうち山田湾に注ぐ関口川河口流域の堆積地に位置する盛岡藩領大槌通に属す村高は,「邦内郷村志」117石余(うち給地105石余),「旧高旧領」も117石余元和2年山田村が当村と上山田村との2か村に分村して成立したといわれる(山田の歴史)ただし,「正保郷村帳」「貞享高辻帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「安政高辻帳」には当村と上山田村の名は見えず,山田村として記される領内では上下両村として把握されていたが,幕府に対しては山田村一村として届けられていたのであろう天保8年の「御蔵給所惣高書上帳」によれば,村高117石余のうち蔵入地65石余・給地52石余「邦内郷村志」によれば,家数27,馬は上山田村と合わせて141,雑船10「本枝村付並位付」によると,位付は中の上,家数136うち駅場の山田町81元和2年の分村後遠近より当村への移住者が多く,釜谷洞を中心に浜通りに沿って南へと家が建ち並び町場の景観を形成する享保15年上山田・下山田村に検地が行われ,間数・境が改められ発展の基礎となる(柳沢文書/山田町郷土史料集)寛政4年に大火があり,釜谷洞地区は残らず焼失する(柳沢文書)貞享2年下山田浦において与板船2艘が吹き流されて漁師が水死し,その妻子に正月より3月まで藩より御助米が給与される(大槌支配録/山田町郷土史料集)寛政5年当村の鰯小舌網師重兵衛・岸引網師太一左衛門は,家焼失のため4か年御礼金の免除となる(同前)文政年間常陸那珂湊において山田浦の笹屋六助・笹屋利助・加賀屋彦太郎・川村安兵衛・新保屋吉衛門・白土作之充・清水屋百四郎・東屋次郎右衛門・関屋六三郎・佐藤屋十兵衛が海産物の取引をしている(諸国御客面附留抜粋/同前)天保11年下山田浦には,小天頭2丁立13・小与板3丁立2・4丁立1・5丁立1・五大力3丁立2の計19艘の雑船,与板沖漁船6丁立1艘がある(大槌通御代官所諸船塩釜御改帳/同前)安政年間山田浦において廻船宝徳丸は干 ![]() |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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![]() | 下山田村(近世) 江戸期~明治8年の村名備後国沼隈郡のうち沼隈半島の脊梁,論田川流域元和6年藩主水野氏の私検地により山田村から分村して成立はじめ福山藩領,元禄11年幕府領,同13年から再び福山藩領村高は,元和6年地詰369石余,元禄12年備前検地396石余・反別41町7反余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに412石余宝永8年の戸数44・人数897,文化年間の戸数158・人数653,牛113・馬13,小池25八幡宮は高下にあり,下山田の産土神,ほかに小祠15(備後郡村誌・福山志料)明治4年福山県,以後深津県・小田県を経て,同8年岡山県に所属明治4年八幡宮へ福山藩庁奨励の啓蒙所として長運校を開くその後,同6年長運小学校と改称同8年熊野村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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