ケータイ辞書JLogosロゴ 陣内村(近世)


熊本県>大津町

 江戸期〜明治22年の村名。合志【こうし】郡のうち。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」1,406石余,「正保郷帳」も同高ですべて畠方,「天保郷帳」1,451石余。「旧高旧領」640石余。寛永年間までに中陣内村,宝暦年間までに下陣内村を分村。はじめ下町組に属す。「肥後国誌」では大津手永に属し,高634石余,「里俗上陣内村ト云」とあり,神社は天神社2・若宮社,寺院は浄土真宗東派光行寺,帆保(旧姓稲葉)因幡と合志氏家臣の安藤上総介・今村八郎の屋敷跡のほか,天台宗光行寺跡・禅宗光徳寺跡が記される。光徳寺は川尻町大慈寺2世鉄山の開創と伝える。小村に玉岡があり,神社に弥護大明神社がある。白川の上流,瀬田のかぶと石付近から灌漑用水を引いて開発を進めたという道君首名伝説があり,玉岡城主帆保氏による開発もあったと思われるが,本格的に当地が開発されるのは江戸初期の加藤清正入国後の瀬田下井手開削からで,元和4年その竣工当時には同井手により反別269町余が灌漑され,その大半は当地を中心とする一帯であった(肥後藩農業水利史)。村高は,慶長13年の検地帳(県立図書館蔵文書)によれば,反別198町6反余うち田94町4反余・畠104町1反余,分米1,922石余うち田1,193石余・畠729石余。寛永10年の人畜改帳では,上陳内村・上陳内出分・下陳内村・下陳内出分に分けて記され,上陳内村は戸数8・人数40,牛4・馬6,上陳内出分は高174石,戸数9・人数50,牛8・馬10。宝暦13年の田畑下名寄帳(同前)によれば,反別60町5反余,給地で高634石余,田畑の反別44町3反余。寛政7年の大津手永略手鑑(肥後藩の農村構造)では,庄屋は円右衛門,高634石余,御土物成358石余,年貢率5割6分余,本方給地で,田24町6反余・畑19町7反余,人数280,牛馬61,揚酒本手1本・質屋札1枚・水車1か所・藍瓶2本などが記されている。当地は瀬田下井手から分かれた中井手・塘井手などが縦横に走り,これらの細かな水利権および井樋については嘉永6年の大津手永瀬田上下井手筋井樋分水調帳(白川土地改良区蔵文書)に詳しい。光行寺は,承応2年加藤家旧臣保々清伍祐安により再興され,寺地は長岡監物の寄進。氏神は町村の窪田阿蘇神社。古宮が当地にあり,遷宮は江戸初期と思われる(陣内志談)。10年に一度神幸【みゆき】祭りと称される遷宮式が行われる。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。同年中陣内村・下陣内村を合併。同17年熊本と大分を結ぶ立野村から瀬田村と当地を経て津久礼方面への道が県道とされ,その沿道が一時にぎわった。この県道指定には旧下陣内村の江藤家の力によるといわれる。しかし,のち大津街道筋の政治的運動により,同25年その指定が取り消されて大津街道が県道となった。明治22年陣内村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7452286
最終更新日:2009-03-01




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