ケータイ辞書JLogosロゴ 津守保(中世)


熊本県>益城町

 鎌倉期〜南北朝期に見える保名。託麻郡のうち。応永27年閏正月20日に書写された建仁2年11月3日の健軍社領肥後津守保田地坪付目録写(阿蘇文書/大日古13‐1)に「注進 任寄進状可遂社家検注津守保田地坪付目録事」とあるのが初見。同目録写は一部欠損があるが,「任寄進之状,毎年被遂検注,可召所当米」の田地として,合計115町6反4丈中が書き上げられており,一所ごとに田積・所在地などが記されている。なお鎌倉後期に成立したと推定される年月日未詳の託麻郡所領注文(詫摩文書/県史料中世5)によれば,健軍社領230町5反のうち,「四至内廿丁 本不輸拾八丁 神宮寺五拾丁 片寄百四拾弐丁五反」からなっていた。このことから,当保は建久5年に片寄せされた浮免神田の大部分を占めたと考えられる。応永27年閏正月14日に書写された天福2年2月11日の健軍社領肥後津守保作田人給注文写(阿蘇文書/大日古13‐1)によれば,「石武御分免」11町7反を筆頭に,拝殿修理・供僧・預分・今牛給田・年預・政所などの免田が記載され,合計107町8反2丈であった。また同注文写には若塩・青木・恵那・富油・栗生・川原・味木・横田・入田・寺前・末吉・立石・錦野・横枕・河原・奥・吉水・弘末・田原など,一部現在でも確認できる条里制の遺構とみられる里名・坪付があり,田積が記されている。元弘3年12月22日の沙弥道与年貢算用状(同前)には,「律(津カ)守分十九丁六反三丈内・不四丁六反一丈……分米廿二石」とあり,阿蘇本社への上納分が知られる。南北朝期になると,康永3年3月20日の少弐頼尚預ケ状写(同前/大日古13‐2)によれば,少弐頼尚が阿蘇大宮司惟時に対して,当保の安堵について京都に注進した旨を伝えている。一方,正平2年11月24日の征西大将軍宮令旨写(同前)によれば,同じく惟時に対して「殊抽軍忠者」という条件で,当地などの知行を認める旨を約している。その後正平6年2月18日の宇治惟時譲状写(同前)によれば,当保などが孫子惟村に譲られており,同19年7月10日には,恵良惟澄から嫡子惟村に当保などが譲られている(同前)。当地は内乱期にしばしば戦場となった。正平3年9月日の恵良惟澄軍忠状(阿蘇文書/大日古13‐1)には,延元2年7月,北朝方であった津守城落城が見え,永徳元年7月日の深堀時久軍忠状(深堀文書/県史料中世5)には,同年6月29日に「木山・津森両城,御新(ママ)発之時」とある。なお正平18年閏正月25日の阿蘇社造営料木納帳(阿蘇文書/大日古13‐1)に「一,四丈五尺木 一ほん つもりの分」と見える。また室町期と推定される年月日未詳の阿蘇山本堂葺板諸郷等支配状(同前)に「七百枚・津守・健軍」とある。下って文明4年11月26日の阿蘇山本堂造営棟別料足請取日記写(同前/大日古13‐2)には,「津守之御使,陽泉々,光永三郎左衛門尉,彼両人より請取申候料足十四貫八百十文」とある。「八代日記」天文19年閏5月19日条には「隈本より木山・津守・隈荘動候」とあり,同年と推定される年未詳閏5月19日付の菊池義武書状(相良家文書/大日古5‐1)では,相良晴広に対し「津守・木山」における功を賞している。また「八代日記」永禄5年4月1日条に「木山・津守取合其聞得候」,同4月13日条に「津守之城落去」とある。下って「上井覚兼日記」天正13年閏8月18日条に「出田助九郎殿,(城)一要之名代ニ参上也,木山・津守なとへ番衆被指籠候,皆打捨退也」,同28日条に「御用心ニ津守・木山へ諸所之衆御番とて,次第々々に被指遣候也」と見える(古記録)。「事蹟通考」によれば,当保の領邑13村とあり,現在の上益城郡益城町から菊池郡菊陽町・阿蘇郡西原村の一部にかけての地域に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7452830
最終更新日:2009-03-01




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