ケータイ辞書JLogosロゴ 砥河(中世)


熊本県>益城町

 鎌倉期から見える地名。託麻郡六箇荘のうち。平安末期の久安元年と推定される年月日未詳の肥後国訴状写(高野山文書/平遺4719)に「砥川大夫経盛」「国庫納砥川官物米四十三石五斗,稲千八百八十束」などと見え,当地を苗字の地とする在地領主の活動が知られる。正和5年5月12日の関東下知状案(詫摩文書/県史料中世5)に「砥河・木崎・上安永・鯰郷者,為新補地間,自往古不相綺」と見え,当地は新補地頭の地であり,六箇荘惣追捕職の所務権は及ばないことが確認されている。なお,鎌倉中期と推定される年月日未詳の久我家領目録(久我家文書/岐阜県史古代中世4)に久我家領の1つとして「砥川」と見える。また鎌倉末期頃までに成立した「水上山万寿開山神子禅師行実」(続群9上)に見える「肥州河村」は当地のことと推定される。南北朝期の様相は不明であるが,室町期の応永11年11月6日には九州探題渋川満頼から阿蘇惟村に対し「砥河并国苻」が料所として預け置かれている(阿蘇文書/大日古5‐2)。その後,永正4年10月23日の志岐重遠書状案(志岐文書/県史料中世4)によれば,菊池氏から砥河80町を給されたことが知られる。「八代日記」天文19年6月15日条には「御舟ヨリ砥河成福寺八代越候」と見える。天正年間と推定される年未詳10月16日付の竜造寺政家書状(同前)でも志岐治部大輔に知行させる旨が記されている。なお文亀3年12月19日の菊池氏老中連署状(阿蘇文書/大日古13‐1)に「砥郷四十五町」とあるのも当地のことと推定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7452905
最終更新日:2009-03-01




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