ケータイ辞書JLogosロゴ 入道水村(近世)


熊本県>菊陽町

江戸期〜明治9年の村名合志【こうし】郡のうち阿蘇立野火口瀬の西方,白川中流右岸の河岸段丘上に位置し,杉水台地末端,段丘崖下に沿って集落が立地する台地の切れた段丘沿いに瀬田上井手が流れ,堀川とも呼ぶ当村の成立は当地域では最も古いと伝え,入道(僧)が居住したとか,阿蘇大神がこの地の水を賞めたとする伝承が残るほか,合志の七水の1つに数えられている(改訂合志川芥)熊本藩領村高は,「寛永郷帳」301石余,「正保郷帳」も同高ですべて畠方,「天保郷帳」603石余,「旧高旧領」424石余江戸末期までに南方村を分村はじめ津久礼組に属す「肥後国誌」では大津手永に属し,高398石余,小村に古閑原が見え,地内に天神社・安福寺跡と,当村に隠栖して寛文10年に没した西園寺実晴の末子随宜の墓である円明院殿墓があるなお,同書は南方村を当村の新地として別記している江戸初期の瀬田上井手の開削で水田化が進んだが,必ずしも水は充分ではないなお,慶長9年の検地帳(県立図書館蔵文書)によれば,畠・屋敷高51町8反余・分米301石余慶長13年の検地帳(同前)では,家数19・人数25,牛馬11,畠55町8反余・田2反余,分米325石余寛永10年の人畜改帳では,戸数7,高294石余,人数は男37・女26,牛13,馬11,家数49,屋敷反別8反余,庄屋は作兵衛寛永12年の田畠地撫帳(同前)によれば,田2町1反余・25石余,畠屋敷35町3反余・205石余宝暦12年の田畑下名寄帳(同前)によれば,給知田畑37町余・398石余,新地7町余26石余,上り開き請藪等40町1反余,総反別84町3反余,庄屋は新右衛門同12年の給知田畑地引合改見図帳(同前)によれば,田10町3反余・215石余,畑26町7反余・182石余寛政7年の大津手永略手鑑(肥後藩の農村構造)によれば,庄屋は柿左衛門,人数225,牛馬45,石高・田畑反別は宝暦12年の地引合に同じで,商札1枚,揚酒本手1本,質屋札1枚が許されており,「内膳殿入道水村内古閑原居住拾弐人」とある古閑原は,明和年間以後に成立した御家中地筒の集落で,慶応2年の大津手永銘籍には地筒の同所居住54人とあり,江戸初期の八ケ所地筒と同じように地筒だけで集落を形成したものと思われる(大津町史研究1)氏神は入道水菅原神社(天神社)で,天明7年奉納の手水鉢,天保7年奉納の石灯籠一対がある古閑原菅原神社は寛文5年の勧請で,延享3年奉納の石灯籠一対,天明4年寄進の石手水鉢があるまた随宜さんと呼ばれる西園神社がある細川忠恒は随宜を古閑原吉カ平の地に葬り墓碑をたて,のち神祠を設けて祭祀した(菊池郡市神社誌)熊本県を経て,明治5年白川県に所属同9年原水村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7453382
最終更新日:2009-03-01




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