ケータイ辞書JLogosロゴ 原村(近世)


熊本県>菊池市

 江戸期〜明治22年の村名。菊池郡のうち。熊本藩領。村高は「旧高旧領」482石余。なお天正17年の検地帳(県立図書館蔵文書)によれば,高336石余うち田86石余・畠217石余。「肥後国誌」によれば河原手永に属し,四町分村のうちとあり,高404石余,小村に細永村・伊牟田村・鍋倉村・竹牧村・長山村・戸四郎村などがある。文化・文政年間の河原手永手鑑によれば,高404石余,新地78石余,請免は177石余,竈数250・人数1,205,牛207・駒6・駄馬434(肥後藩の農村構造)。菊池川筋から数多くの井手が引かれたが,うち大場堰から分水する原井手は,惣庄屋河原杢左衛門により元禄11年着工され,同14年に成就した。また古川井手が文化12年に竣工。菊池川の最上流にある同井手と下流の原井手とは,自然流入の井手として村々の約定がなされたが,旱魃になると堰止めされ,紛擾を起こした。文政元年の旱魃では,大場堰をめぐって河原・深川両手永の水論が起きた。8月3,4日頃には,当村に加勢する河原手永の村と深川手永の村がともに人数を繰り出し,紙旗などを立てて対立,7月には合志郡代が竹迫【たかば】村から80人ばかりを連れて鎮圧の加勢をするなどの騒ぎとなったが,翌年5月に首謀者が処罰されて結着がついた(島屋日記/菊池市教育委員会蔵文書)。このような紛争を防ぐため,まず助水の溜池として,天保2年馬見野に堤を造り,これを木落川に落として古川井手に注がせた(兵藤井手通諸覚/肥後藩農業水利史)。さらに戸豊水【とりゆうず】村庄屋平山八左衛門らは,天保7年幕府の許可を得,豊後国日田郡の兵藤山の山水をせきとめ,原村の鉾の甲に導き古川井手へ注ぐ工事に着手,古川兵戸井手を完成させた(肥後藩農業水利史)。当村は菊池苔を特産とする(毛吹草・和漢三才図会)。深葉山から細永までの菊池川筋を御苔場とし,年々520枚を藩に上納。1枚につき代銭4分で,うち2分は村方小前に配当,残りの2分は庄屋へ渡った。豊後境の長山・伊野・竹の牧には御口屋(小番所)が置かれた。文政6年架設された永山眼鏡橋は,菊池と小国や豊後を結ぶ要路に架けられた菊池地方最古の橋で,現永山橋は明治11年の完成(肥後の眼鏡橋)。立門眼鏡橋・竹之牧橋などもある。氏神は菅原神社。天正10年川鶴に鎮座したと伝え,文化5年水害のため山の上に遷座,拝殿は天保13年に完成した。境内には字闇から大正12年遷座した熊野座神社がある。ほかに上園・香賀鶴・永山に各菅原神社,鍋倉に田代神社,迫の口山神社,横山八幡宮がある(菊池郡市神社誌)。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。明治8年原小学校が開校。当初の形態は旧来の寺子屋と変わらず,同13年になって机・椅子などが設置された。同19年四丁分小学校を支校とする。同22年水源村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7453600
最終更新日:2009-03-01




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