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- 晴山村(近世)とは
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晴山村(近世) 江戸期~明治9年頃の村名津軽郡鼻和庄のうち深浦台地北部に位置し,北側は日本海に面し,南方には白神山地に続く山間地が広がる弘前藩領天和年間には,風合瀬【かそせ】・晴山・柳萢・館・野中・新左衛門新田の6か村を風合瀬村と総称したといわれ(西津軽郡史),はじめは風合瀬村の枝村であったが,享保11年同村から分村して独立した(村名改称并新村創立調)天和3年の御代官所村家人数之帳(八木橋文庫蔵)には,西浜御代官所支配の新田として晴山御蔵新田の名が見え,のち当村のうちに含まれるようになったものと思われるなお,「津軽平野開拓史」によれば,貞享4年の検地に際し晴山地子新田(晴山御蔵新田が晴山地子新田と改められたのであろう)が晴山村と改称したものともいわれるが,当村および本村である風合瀬村の「貞享4年検地水帳」が現存していないので不詳村高は,「天保郷帳」57石余,「旧高旧領」67石余元禄3年には赤石組に属し,村位は下(平山日記)享和2年の伊能忠敬「測量日記」によれば,家数10軒嘉永3年の松浦武四郎「東奥沿海日誌」では針山村と見え,「此村ハ往来の際にハあらず,凡海辺を隔つ事七八丁も有べし,人家三十軒にて農家のみ,人家至て富り……一軒茶屋浜辺に立たり,轟村より田の沢の間余り遠き故に,旅人も冬ハ甚難儀する由にして建屋よし,草鞋ヲ売るのミの事也」とあるが,これは風合瀬村を含めての状況と考えられる神社は,元和元年の再建という貴野神社が地内大磯にある(享和3年寺社領分限帳)地内汐干浜にある小祠には板碑が2基御神体として祀られており,同碑に年号は見られないが,鎌倉期末~南北朝期のものと推定される明治4年弘前県を経て,青森県に所属明治初年の戸数13,村況は「秋田街道より東南の方七丁山手にあり,又官道の外に浜通りありて風合瀬村の西鳥居岬の一軒茶屋にて官道に合ふ,海上を眺望して風趣あり,土地下之下,田畠耕耘を専とし余日炭薪漁猟を以て日用を足す」という(国誌)明治9年頃風合瀬村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
晴山村(近世) 江戸期の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」