ケータイ辞書JLogosロゴ 盤闍久(中世)


熊本県>菊池市

 南北朝期に見える地名。菊池郡のうち。建武3年9月18日の小代重峰軍忠状(小代文書/県史料中世1)に「肥後国野原西郷一方地頭小代八郎次郎重峰自去月廿日至于同卅日,属合志太郎手……次今月三日,於当国菊池寺尾野・盤闍久・虎口・穴河城等,尋探御敵,自令破彼城等」とあり,建武3年9月日の小代吉宗軍忠状(同前)にも同様に見え,当時,合志太郎幸隆・小代八郎重峰・小代吉宗らは北朝方の武士として南朝方の菊池氏を攻めており,当地でも激戦が行われた。なお江戸期の半尺村の小村として見える穴川については,前記の2通の軍忠状に「穴河城」と見え,菊池方の拠点の1つであった。延元3年3月27日の菊池武重寄進状(広福寺文書/県史料中世1)では,「きしんしたてまつるひんこのくにきくちのこをりのうちほうき山しやうこしのしきちの事」の四至に「にしかきるあなかはのさいけのおゝかは」とあり,さらに同年の菊池武重四方指(同前)にも「ほうき山のさかいの事……にしハつゝみのとうのしものはやせのきたのやま十ちやうはかり入て,それよりあなかはのさいけのにしのおゝかはのほりのミなをより」とあって,聖護寺の敷地の西側堺にあたっている。また康暦元年と推定される7月17日付の今川了俊書状写(阿蘇文書/大日古13‐2)には,「菊池のあな川の上に候城をとりこしらへ候」とあり,穴川は戦略上重要な地点として城が築かれていた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7453613
最終更新日:2009-03-01




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