東無田村(近世)
江戸期〜明治9年の村名上益城【かみましき】郡のうち熊本平野東部,木山川・赤井川と加勢川との合流点付近に位置する地名の無田は低湿地の意で,村名はその東に位置したことにちなむという現在の集落は近世初頭に水害を避けるため南東部小池台地の北縁に移ったものといい,地元では上り無田とも称されている地内に弥生中期の東無田遺跡や立石遺跡がある熊本藩領村高は「旧高旧領」679石余「肥後国誌」では沼山津手永に属し,高402石余,氏神は八幡宮「拾集物語」に「沼山津下より東無田櫛島以下」は「悉くぬまにて候を中瀬川御ほらせ被成当分之通に候」とあり(肥後文献叢書4),加藤氏時代には水害常襲地であった江戸後期,溝渠をうがち横堤や五百間堤を築造するなどの努力が続けられた(上益城郡誌)慶応年間〜明治初年に習字の寺子屋があり,教師1,生徒数は男46,同8年東無田小学校が開校し,同11年の生徒数は男38・女12(県教育史)熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属同年島田村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7453668
最終更新日:2009-03-01