ケータイ辞書JLogosロゴ 広村(近世)


熊本県>鹿央町

 江戸期〜明治22年の村名。はじめ玉名郡,明治3年からは山鹿郡のうち。熊本藩領。村高は,「寛永郷帳」「正保郷帳」「天保郷帳」では千田村のうちに含まれ,「旧高旧領」で735石余。なお慶長13年に千田村のうち当村分の検地帳が作成されており,同帳では田16町6反余・畠35町3反余,分米405石余,家数16・人数39,牛馬10とある(県立図書館蔵文書)。「肥後国誌」によれば中富手永に属し,千田村のうちとあり,高722石余,小村に広ノ町・城ノ尾村・水原村などがある。このうち水原村は千田川上流右岸に位置する。地内には中世色の濃い字名があり,開発の古さを物語る。広ノ町は「肥後国誌」に「近年一在町ナリ」とあるように,村内中央を通る豊前街道沿いに形成された在町で,文化9年の「中富手永風土記」(平野家文書)によれば,20軒余が街道沿いに立ち並んでいたという。天保12年の中富手永略手鑑(多田隈家文書)では,米・雑穀をはじめ日用雑貨59種が商売許可の品物としてあげられている。なお文化11年の中富手永手鑑(肥後藩の経済構造)による家数74・人数302,馬59で,質屋3・造酒屋3・紺屋2・麹本手3・油本手2や商札所持者23が見える。また同街道の両側には櫨並木が続き,当村から郷原村に至る街道の一部は櫨小屋街道とも呼ばれた。これは櫨が藩の専売品であったため,取締りの櫨小屋が設置されていたことによる。氏神は慶安2年勧請と伝える阿蘇神社。寺院には明蓮寺・徳栄寺・善行寺があり,うち善行寺は嘉永6年参勤交代時などの藩主や一族の休息所に取り立てられた。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。明治8年上広村・下原村を合併。「郡村誌」によれば,田53町1反余・畑180町2反余,戸数222・人数1,089,馬152,水車1,字歳神に人民共立小学校があり,生徒数は男61・女42,物産は穀類のほか甘藷・蘿蔔・南瓜・柿・清酒など,民業は農業182戸・桶職2戸・大工職7戸など。同22年千田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7453777
最終更新日:2009-03-01




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