ケータイ辞書JLogosロゴ 二江村(近世)


熊本県>五和町

 江戸期〜明治22年の村名。天草郡のうち。井手組に属す。はじめ肥前唐津藩領,寛永15年富岡藩領,同18年幕府領,寛文4年再び富岡藩領,同11年からは幕府領。村高は,万治検地帳146石余(天草島鏡/天草郡史料1),「天保郷帳」196石余,「旧高旧領」199石余。なお万治検地による天草郡石高半減以前の高は,「正保郷帳」で381石余うち田223石余・畠116石余・桑茶塩竈網永荒41石余。当村の入江は,古くから南蛮貿易関係の史料に寄港地として記され,またキリシタンに関しても,1596年のイエズス会年報に当村の信心の組結成の記事が見え,元和3年のコウロス神父徴集証言文書には「二会村」から松田杢左衛門・宮崎権兵衛・茂島与左兵衛らが信者代表として署名をするなどしている(南蛮史料の研究)。なお,アビラ・ヒロンの「日本王国記」には「志岐から1レグワのところに,もう一つ深江Futayeというとてもかわいい碇泊地,もしくは小港がある」と見える深江は当地のことと考えられる(大航海時代叢書)。寛永14年の天草・島原の乱では,本渡の戦いに勝った一揆勢が当村に集結した(綿考揖録)。地内高租田で合戦が行われたとの伝承もある。漁業も盛んで,正保2年漁業の統制と運上取立てのため定浦制がとられた際,当村はこの7か浦の1つとされ,水主役17人を負担。寛文5年からは鶏冠草【とさか】運上・塩浜運上が課せられたが,寛延3年の村明細帳(岩崎家文書)には,海産物に,とさか・ふのり・ひじき・あらめなどが記され,船数95とある。また御照覧と称し,裸もぐりによる漁労を代官所諸役人に見せたともある。同帳による家数226・人数1,466,キリシタン類族78,神社は十五社宮・春日明神・恵美須社,寺院は野川庵,堂1,観音堂3など。なお「肥後国誌補遺」では,他書に鬼池村の枝村とある引坂村を当村の村とし,竈数55・人数653とある。「天草島鏡」(天草郡史料1)によれば,天保4年の家数289・人数3,346,田が高106石余・反別10町3反,畑が高90石余・反別21町5反余うち新田畑高50石余。万延元年には456軒・3,765人を数える(天草近代年譜)。なお内野川河口に,荒河内村・城木場村・上野原村・井手村および当村共同の郷蔵があった。富岡県,天草県,長崎府,長崎県,八代【やつしろ】県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。明治7年(一説に8年)野川庵を仮用して小学校が開校。同10年野川庵が松濤山東雲寺と改号。同22年市制町村制施行による二江村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7453859
最終更新日:2009-03-01




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