ケータイ辞書JLogosロゴ 馬見原村(近世)


熊本県>蘇陽町

 江戸期〜明治22年の村名。阿蘇郡のうち。馬見原町ともいう。江戸末期までに大野村から分村して成立。熊本藩領。村高は「旧高旧領」160石余。「肥後国誌補遺」では,大野村のうち「馬見原町」と見え,菅尾手永に属し,高151石余,地内には古町・新町などの町筋があり,町の規模は5町18間,当町から日向国境への道は「メウト石」境まで18町16間の距離,地内の浄土真宗西派順正寺は寛永14年に熊本順正寺から来た僧了覚の開基とある。また当地には馬見原町上番所が置かれ,上番1人と下番2人の勤番とされるが,同書には「当時ハ二人ヨリ多シ」と記される。「肥集録」によれば,日向国境の馬見原口へは熊本から14里28町,番所は知行取番とされ,鉄砲3挺,一両筒,大身鑓2本の武具が配されていた(肥後国地誌集)。地内には7枚立の高札場もあった。明和5年延岡往還にある番所は惣庄屋支配で,番人は町人のなかから決められ,特に仕事もないため,廃止を郡代に上申したが,番所が存在するだけで旅人取締りの効果があるので従来どおり残された(熊本藩年表稿)。近接する日向国高千穂地方は水田が少なく,鉱山が多いため,鉱山労働者用の米塩の輸送路は重要であった。益城【ましき】地方の農産物は当地に集められ,ここから馬見原駄賃と呼ばれる荷駄で三田井(現宮崎県高千穂町)などの高千穂地方に輪送された。また当地は高千穂地方の山の産物と,平坦部の日用品との交易の市場でもあった。このため天和元年町立てされ,在町として地子免許を受け(官職制度考),元禄15年には在町奉行が置かれた。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。日向国山間地と,肥後緑川平坦部との中継集散地として,荷駄輸送を主に栄えた当地は,明治17年頃から三田井と高森を結ぶ荷馬車の通れる直通道路が開かれると駄賃付は衰退し,その後県道や鉄道の整備・開設に伴いかつての面影はなくなった。明治22年馬見原町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7454105
最終更新日:2009-03-01




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