ケータイ辞書JLogosロゴ 南坂梨郷(中世)


熊本県>一の宮町

南北朝期〜戦国期に見える郷名阿蘇郡阿蘇荘東郷のうち南坂梨子とも書き,坂梨郷とも見える地名としては平安末期から見え,治承2年3月13日の阿蘇社宮師僧長慶譲状案(阿蘇文書/大日古13‐1)に「田地等……一所一丁一段〈南坂梨子栗木〉一所五段〈同千与縁〉」と見え,阿蘇社宮師職などとともに嫡子亀法師丸に譲与している下って弘安10年3月23日の宇治惟景譲状写(同前/大日古13‐2)に「南さかなし一向此譲あたうなり」と見え,当地などを弟惟国に譲っており,同年10月13日の北条為時下文(同前/大日古13‐1)によって安堵されている下って正和3年8月21日の肥後南坂梨郷得分注文案(同前)には「ひこのくにあそのしやりやうミなミさかなしののさとのこすのをのゝ一ねん中のとくふんの事」とあり,これは当地の野里の「こすり」麻の1年間の大宮司得分を指すと推定されるが,この注文案によると,藍・皮・「ほをくちの」麻の代銭,合計2貫620文,酒手用途2貫文,さらに90麻を麻績で上げ,引出物の布6反を進上するほか,布は御用次第で納めなければならなかったまた「おろしこめ(下米)」という一種の出挙も行われており,「ひこ三郎」など4人の百姓がこれらを納入する義務を負っていた元徳2年正月14日の阿蘇社造営料木第三箇度切符写(同前)には「北郷分」として「一,南坂梨」とあり,一宮・二宮の庇縁椽60支,四宮の裏板82枚,庇縁椽68支が宛て課されている同年5月10日の肥後阿蘇荘内南坂梨郷田畠坪付注文案(同前)には「ひこのくにあそ御しやう内ミなミさかなしのてんちけミの事」とあり,当地は70筆,総計34町6反2丈,除田は河成4丈,畠1町2丈と本坪の不足2町8反1丈,定田は30町7反で,ほかに給分4町,うち除田は畠2丈,本坪の不足1反1丈,定田は3町8反2丈で,新開分は2町1反1丈であった正慶元年9月2日の阿蘇社造営料釘等支配状写(同前)には「南坂梨子分」として竹釘3斗2升2合,1尺の竹釘770が宛て課されているまた同年11月22日の造営料鍛冶炭苫未進注文写(同前)では,当地は炭60駄・苫6帖を未進している郷名の初見は,南北朝期の建武3年3月11日の阿蘇社領郷村注文写(同前)で,権大宮司沙汰分の東郷の1つとして「一所七十町〈今ハ五十町〉南坂梨郷」と見える貞和4年11月7日の南坂梨郷屋敷得分注文案(同前)では,「ひこのくにあそのしやりやうミなミさかなしのかうのやしきいけのちうもんの事」とあり,麻の代,藍の代,皮の代などが記され,上山崎・下山崎・滝水・永仁田は各々一貫60文,楢木野村・釡廻は各々780文,菅井・御沓村は各々960文であったそのほか,「さとのふん・わかたうかきうふん」「百姓やしきの事」が記され,さと5か村の用途が2貫文,野里の分10貫340文,合計12貫340文となっている野里とは外輪山の外側斜面にあり,当郷を本郷とする分村のことである正平7年2月吉日の阿蘇社上葺等次第(同前)によれば,「南坂梨」は北坂梨など6か所とともに「二御宮橋隠し之分」を勤仕している天授3年の阿蘇山衆徒料足等納帳(西巌殿寺文書/県史料中世1)によれば,行法用途料として12月29日に3貫500文を勤仕している永徳2年の追記のある年未詳10月9日付の義嗣書状(同前)には「上宮御寄進南坂梨・同湯浦行法用途」とあり,当地の行法用途などを沙汰するよう一大夫・今村・二大夫に命じている至徳2年8月7日の阿蘇社領郷々注文(阿蘇文書/大日古13‐1)には「一所みなミさかなし 七けふん」とあり,このうち9反が御米田で,南郷代官竹原殿と「なかゝ」代官坂梨のゆき殿の知行となっている同4年8月日の肥後阿蘇郷村并宮地四面内天役注文(同前)にも「一,かうかうの分」の1つに「三十五貫文 ミなミさかなし七けんの弁」とある下って応永9年卯月日の阿蘇社造営料木郷村支配注文案(同前)には「ミなミさかなしのかう分」として料木49支が宛て課されている同11年11月3日の阿蘇社領宮地居取田并郷々御米田算用状(同前)には「□(南)坂梨郷」とあり,田数1町4反のうち定田3丈(2斗代),除田は井料2丈中,屋形の坪5反,不作・水損・河成が7反4丈中であった同16年9月晦日の阿蘇社領宮地四面内并郷々御米田田数目録帳(同前)には「一,みなみさかなしのかう〈はら田〉一所二反〈二田〉さく人さへもん太郎」とあるなお後欠で年月日未詳の肥後阿蘇荘郷々造営料木支配注文(同前)には「坂梨郷分」「北坂梨郷分」が並記されており,前者が当郷にあたると思われる下って戦国期の文明4年8月25日の阿蘇山本堂造営棟別料足日記写(同前/大日古13‐2)に見える「一所坂梨」は当地のことと考えられ,家数350の代として3貫500文を納めている同11年12月17日の阿蘇社領宮地居取田検見馬上帳(同前/大日古13‐1)には「南坂梨郷」として2筆が記され,「一所五段」は「やかたか坪」,「〈はるた〉一所九段内」の作人は市原紀伊方であった天文6年6月18日の阿蘇社早乙女雇在所注文(同前)によれば,当地から1人出すことになっていた同23年8月7日の阿蘇社造営料木郷々支配注文(同前)では,「南坂梨郷之分にたうつ分同前」として料木が宛て課されている江戸期の「肥後国誌」の阿蘇郡坂梨村の項には「里俗南坂梨村ト称ス」とあり,現在の一の宮町坂梨・中坂梨に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7454189
最終更新日:2009-03-01




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