南走潟村(近世)
江戸期〜明治7年の村名飽田【あきた】郡のうち浜戸川(旧緑川本流)下流が南へ曲流しているあたり,同川右岸に位置する熊本藩領村高は,「寛永郷帳」948石余,「正保郷帳」も同高でうち田894石余・畠54石余,「天保郷帳」981石余「旧高旧領」では,当村および北走潟村から東走潟村・西走潟村・三ケ村が村ごとに記され,当村の高は1,239石余「肥後国誌」によれば銭塘【ぜんども】手永に属し,高1,208石余安政3年の銭塘手永手鑑(天明村誌)では,高1,208石余の反別は田58町7反余・畑16町7反余,竈数77・人数361,寺社は乙護社1・観音堂1・鹿大明神1・大神宮1・地蔵仏3・天神荒神森53とある村内には長右衛門掛・渡場掛など江戸後期の干拓地が多く,総称してマルメロ潟と呼ばれたこれは細川氏が献上菓子製造に際し,香りづけにマルメロの果実を使っており,潟を利用してこのマルメロが栽培されていたことによる熊本県を経て,明治5年白川県に所属同7年走潟村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7454215
最終更新日:2009-03-01