ケータイ辞書JLogosロゴ 矢谷村(近世)


熊本県>菊鹿町

 江戸期〜明治22年の村名。山鹿郡のうち。熊本藩領。村高は「旧高旧領」137石余。なお寛永12年の地撫帳(県立図書館蔵文書)では高131石余。「肥後国誌」では,中村手永に属し,高121石余,小村は本村・東林寺村・御番所村など。宝暦2年の中村手永御蔵納手鑑(肥後藩の農業構造)では多久村の枝村とあり,村内には猪鹿鉄砲札所持者6人・鋳物炭焼札所持者2人がおり,また「大山にて畝数積相知不申候」と見える広大な藩有林があった。森林取締役の御山口が常駐。また中村手永内3番所の1つが設置され,百姓番人が詰めていた。宝暦8年の田畑下名寄御帳(県立図書館蔵文書)によれば,小村に中村・原ノ前・中島・松尾・瀬野・浦谷・水昌平・御番所・おとし(威)・桑津留があり,総反別19町余のうち生産性の低い下・下々の田畑が13町2反余あった。安政年間には米・粟・麦・大豆・小豆・蕎麦・大根・唐芋・麻・大角豆・茄子・ぼふぶら・きうり・牛房・人参・胡麻などを作り,ほかに芋・菜種子は苅野に,菎蒻は畑畦や石原に植えた(中村手永稼穡調書/肥後藩の農業構造)。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。「郡村誌」によれば,田26町余・畑15町4反余,戸数88・人数422,馬81,水車1,字原前に人民共立小学校があり,生徒数は男32・女13,物産は穀類のほか甘藷・櫨実・蕨・蘿蔔・柿・薪・炭など,民業は農業73戸・大工職6戸・炭焼職3戸など。同22年の田畑41町1反余・宅地4町6反余,戸数96・人口489(県公文類纂/県立図書館蔵文書)。同年内田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7454432
最終更新日:2009-03-01




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