ケータイ辞書JLogosロゴ 山北郷(中世)


熊本県>玉東町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。玉名郡のうち。地名としての初見は寛元元年12月23日の関東下知状(相良家文書/大日古5‐1)で,相良頼重と伯父長頼法師蓮仏が相論を起こしており,「一,肥後国泉新庄内山井名事……山井山北内弐所々知者悔返之」と見え,相良頼重の所領であったことがうかがえる。年月日未詳の肥後国山北西安寺石堂碑文(同前)には,相良頼景の三男頼平の領地として「〈三十五町〉山北郷・〈十二町〉屋気村」とある。ただし同碑文については検討の余地がある。なお元亨元年3月3日の阿蘇社進納物注文写(阿蘇文書/大日古13‐2)には「一,当国中初米進ミたてまつる所々の注文」のうちに「一,こん大くうしはうとり申候初米所々」として「一所山きた」とあり,当地からの初米が阿蘇権大宮司に進納されている。また年月日未詳の阿蘇社年中神事次第写(同前)にも「一,権大宮司請取申分」として「一所山北」と見え,「是ハ権大宮司衣裳䉼」の注記があり,権大宮司の衣装料に宛てられたことがわかる。なお,正平2年11月12日の中院定平のものかと推定される御教書(相良家文書/大日古5‐1)には「同(肥後)国山北郷」と見え,相良定頼に当郷をはじめとする本領を安堵する代わりに挙兵するよう命じている。戦国期に入ると,「八代日記」天文14年5月8日条に「隈本之野口・岩崎,山北のさいあん寺ことく退散候」とあるほか,西安寺については,年未詳12月12日付の大友義鎮書状や同じく12月23日付の大友義鎮巻数請取に「山北西安寺」などと見え,当地域における重要な寺院であったことがうかがえる(西安寺文書/県史料中世1)。なお天文19年正月21日の年紀を有する肥後国山比(北カ)郷八幡宮棟札写(到津文書/大分県史料24)に「奉再興九州肥後国玉名郡山比(北カ)郷宇佐八幡宮一宇」とあるのは当郷のことと思われる。また「上井覚兼日記」にも,天正10年12月22日条に「山北なと申在処へ陳所をなされ候て可然之儀出今候条」とあり,同11年正月4日条に「山北暫挌護并方角計策之事」,翌12年9月22日条にも「武庫様・典厩・薩州・麟台,右之御衆者山北へ御着候也」などと見える(古記録)。なお天正16年のものと推定される慶長9年9月付の検地帳(県立図書館蔵文書)には,「山北之内」として西安寺村・二俣村・小天村が見え,当地域は三岳の山麓の北側と西側一帯に及ぶものかと思われる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7454493
最終更新日:2009-03-01




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