ケータイ辞書JLogosロゴ 湯浦郷(中世)


熊本県>阿蘇町

 南北朝期〜室町期に見える郷名。阿蘇郡西郷のうち。湯裏とも書く。建武3年3月11日の阿蘇社領郷村注文写(阿蘇文書/大日古13‐1)の下田常陸介沙汰分の西郷の1つに「一所三十町〈今ハ二十丁〉湯浦郷」とあるのが初見。同注文写は寛正3年8月12日に写されたものであり,寛正3年には20町として把握されていた。南北朝期と推定される年未詳2月7日付の上島惟頼書状(西巌殿寺文書/県史料中世1)によれば,「抑ゆの浦きやうほう用とうの事」とあり,上島惟頼の所領である当郷の一部が阿蘇山の行法用途としてあてられていたが,百姓が逃散して行法用途料が出せないので百姓1人に1町の田地を割り当てたと述べている。この行法用途は天授3年の阿蘇山衆徒料足等納帳(同前)によれば,12月26日に「六貫文 湯浦行法用途」と見え,応永29年11月30日の阿蘇山衆徒等起請文写(阿蘇文書/大日古13‐2)には「一内陣行法用途」として当地より12貫文納めることとなっていた。また永徳2年の追記のある年未詳10月9日付の義嗣書状(西巌殿寺文書/県史料中世1)にも「同(上宮御寄進)湯浦行法用途」とある。正平7年2月吉日の阿蘇社上葺等次第(阿蘇文書/大日古13‐1)では,「湯裏」は苅尾など11か所とともに「北四宮面之分」を勤仕している。なお同19年12月日の阿蘇社領四面内并郷々闕所注文(同前)には「一,まといし 一所 これハゆのうらのなかしまの給也」とあり,当地に中島なる者が居住していたことが知られる。下って至徳2年8月7日の阿蘇社領郷々注文(同前)には「一所ゆのうら三けそうりやう二けふん」とあり,当地は3家分でうち2家分が惣領分,代官としては南郷代官「なかの」氏,「なかゝ」代官矢村祝などが知られ,「なかしま御れう所,やしき一所なかミやはら」とも見える。また同4年8月日の肥後阿蘇郷村并宮地四面内夫役注文(同前)にも「十四貫 ゆのうらのかう三けんの弁」とある。室町期応永9年卯月日の阿蘇社造営料木郷村支配注文案(同前)では「ゆのうらのかう分」として41支の料木が宛て課されている。同16年9月26日の阿蘇社領権大宮司方催促方田数坪付注文(同前)には「一,ゆのうらかう二十町内 きう人なかの方」とある。応永16年9月日の肥後湯浦郷坪付山野境等注文写(同前)には「注進肥後国阿蘇之社領之内湯浦之郷廿町之内田地坪付并山野之境村々付テ注置者也」とあり,小薗・中薗・馬場・中尾・野付・戸無・今山・城・宮之尾・室薗・上恵良・中島・杉薗・南・北・すたれ・内田・東原・上河口・下川口・小島・大宮原・中宮原・宮原・折戸・狩尾・下竹原・小里など,当郷に属する村々の田地坪付,各村の山野境が記される。これらの村々の貢租は,田地の年貢のほか,地頭土貢分と中司土貢分が存在する。内容は農作の加用・公事料・所当米・桑代銭・祭祀用料・用作料米・門苧・筵・山芋・そうめんなど多岐にわたるものであった。同年9月日の肥後湯浦郷阿蘇社役注文(同前)によれば,「湯裏之郷〈惣領方・庶子方〉」とあり,惣領方15か村(馬場・中薗・中尾・小薗・野付・内田・すたれ・小島・戸無・城・今山・宮尾・上河口・下河口・室薗),計12町5反,庶子方9か村(南・北・杉薗・中島・上恵良・東原・大宮原・中宮原・したか),計7町1反3丈に分けられ,いずれの地も流鏑馬の際の射手・的立て,御田会の獅子舞,屋形の材木の負担を勤めている。惣領方の15か村は花原川右岸,庶子方9か村は同左岸に分布し,ほぼ2対1の広さであった。文安5年8月18日の阿蘇社造営木屋勤仕人数番定(同前)には10番に小島五郎太郎の知行分として小島,中島孫九郎知行分として中島,15番に北殿御知行分として中尾・中薗,16番に竹原民部少輔知行分として湯浦・小薗,17番に鞍岡石野知行分として湯浦・東原,堀左京知行分として「すたれ」が見え,当郷は6名の知行人に分割支配されていた。文明4年8月25日の阿蘇山本堂造営棟別料足日記写(同前/大日古13‐2)では,家数250の代として2貫500文を納めている。この家数から当郷内の小村は一村あたり約10棟の小規模な集落と思われる。天文23年8月7日の阿蘇社造営料木郷々支配注文(同前/大日古13‐1)によれば,「湯之浦之分」として料木を宛て課されており,当郷が戦国期まで造営役を勤めていたことが知られる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7454569
最終更新日:2009-03-01




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