ケータイ辞書JLogosロゴ 六箇荘(中世)


熊本県>嘉島町

 平安末期〜室町期に見える荘園名。託麻郡のうち。安元2年〜治承3年に書写された大般若経奥書(愛知県菟足神社蔵/日本の美術156)に「六ケ庄」とあるのが初見。建久2年10月日の長講堂領目録(島田文書/鎌遺556)に「六箇荘」とあるように,長講堂領の荘園で,応永14年3月日の宣陽門院御領目録(八代恒治氏所蔵文書/大日料7‐8)にも同領の一所として「六箇庄 日野入道一位家 年貢米八百石」と記されている。年欠ながら鎌倉期と推定される肥後国内荘々名々坪付注文(詫摩文書/県史料中世5)には「六ケ庄三百四十丁二反」とある。前記の長講堂領目録には「六箇庄 御寺役 元三御簾四間 畳廿一枚……月充兵士……元三料 砂廿両 侍所垂布三段……三月御八講砂二十両 彼岸御布施布二十段……廻御菜二ケ月……門兵士十二人……移花四十枚」などの課役が記されている。建保4年4月22日の将軍家政所下文案(同前)によれば,源業政が「六箇庄小山村」の地頭職に補任されている。この源業政は早岐氏で,以降同村地頭職は早岐氏に相伝され(同前),建長3年8月10日には早岐盛実から庶弟若熊に譲られ(同前),同8年10月3日幕府から承認されている。なお永仁5年3月の年紀のある福田寺旧蔵五輪塔台石銘(熊本県史蹟名勝天然記念物調査報告)に「当国六ケ庄上安永地頭沙弥是有之存生之時奉造立五輪塔也」とある。正安元年12月20日の関東下知状(阿蘇文書/大日古13‐1)によれば,「六ケ庄中村内得恒名田畠」について上島惟盛女と舎兄中村惟季との間に相論があり,惟季は謀書の罪に処せられ惟盛女の勝訴となり,同2年9月6日鎮西探題施行状(同前)が下されている。しかし延慶2年6月26日の鎮西探題下知状(同前)によれば,惟季は押領物を返済しなかったため,「六箇庄徳恒名一分地頭宇治氏」がこれを訴え,惟季の子惟定は和与して「田地雷町乃南乃与利伍段,太郎丸が屋敷広尾女房乃屋敷,以上弐所」を宇治氏女に去り与えている。正和元年12月21日の早岐正心(清基)譲状案(詫摩文書/県史料中世5)によれば,小山村の地頭職が子息正円に譲られており,正和5年5月27日に裏書で安堵されている。しかし正和3年3月10日の正心(早岐清基)置文案(同前)によれば,小山村地頭職所務条々を定め,先日同地頭職を正円に譲るもこれを悔い返して,孫の菊池九郎隆信に譲ることを定め,民百姓を哀憐すべきこと,領内に博打・夜討・強盗を置かないこと,殺生禁断のことなどが定められている。その後正和5年5月12日の関東下知状案(同前)によれば,「六箇庄小山郷」の所務権をめぐって,小山郷地頭と本荘惣追捕使職との間で相論があり,「得宗方」で訴陳・和与の決着がなされたことが記されており,これは当荘が一時的かもしれないが得宗領化していた可能性を示唆する。また同下知状案によれば,当荘内の砥河・木崎・上安永・鯰郷については,新補地頭の地であり,惣追捕使職の所務権が及ばないことが確認されている。南北朝期の建武4年5月15日の摂津親秀書下写(新編会津風土記所収文書/南北朝遺935)によれば,三池安芸左近蔵人入道宗円の上申した「肥後国六ケ庄内鯰郷」などの地頭職安堵について,子細を注申するよう三池兵庫助(親之)に命じている。また鎌倉期早岐氏に相伝されてきた当荘内小山村の地頭職は,康永2年3月5日早岐武宗から養子詫磨弥一丸(能勝)に譲られているが(詫摩文書/県史料中世5),翌同3年8月25日の早岐武宗和与状案(同前)では,同村地頭職三分一を早岐秀政に去り渡している。同3年3月20日の少弐頼尚預ケ状写(阿蘇文書/大日古13‐2)では「六ケ庄内上島弁房義広并彦八(惟頼)跡」を兵粮粮所として阿蘇惟時に預け置いており,同年7月晦日の少弐頼尚宛行状(島田氏所蔵文書/県史料中世3)では,菊池与一の居城練崎城を落とした功により,「六ケ庄内布加良郷」を兵粮米所として田中太郎左衛門尉に預け置いている。正平2年9月20日の恵良惟澄官軍恩賞所望交名并闕所地注文案写(阿蘇文書/大日古13‐1)には,当荘内の石津村・上島郷・木山郷・青木綱(ママ)・桑原郷・布加良郷の各地頭職のことが見える。同3年9月日の恵良惟澄軍忠状(同前)に「同(正平元年)今月(閏9月)十四日,馳向六ケ庄,焼払御敵宅所等畢」とある。また興国7年と推定される年月日未詳の恵良惟澄注進闕所中指合所領注文写(同前)には「六ケ庄〈本領長講堂御領〉於地頭職闕所分者,先度為料所,宛賜宇土壱岐守高俊了」ともある。貞和4年9月17日の足利直義下文(詫摩文書/県史料中世5)によれば,菊池(早岐)武宗が当荘内小山村地頭職を宛行われており,文和2年10月21日の足利尊氏御教書案(同前)では同村地頭職などが早岐英政に安堵されている。なお,永徳元年9月日の深堀時弘軍忠状(深堀文書/県史料中世5)に「同(永徳元年6月)廿九日,南郡六箇庄御勢仕之間,亀山三郎令向参訖」とある。また南北朝期と推定される年月日未詳の相良定頼并一族等所領注文(相良家文書/大日古5‐1)に山田左衛門次郎分として「同国六箇庄内福富上野彦三郎入道跡田地五町」と見える。下って応永6年3月5日の氏範施行状(詫摩文書/県史料中世5)によれば,「肥後国六ケ庄内志那子・桑原・安永三ケ村」などの下地を詫磨別当代官に打ち渡すよう命じている。その後応永15年3月4日には当荘小山村地頭職が詫磨満親(か)に安堵されている(同前)。なお室町期と推定される年月日未詳の甲佐社神田注文(阿蘇文書/大日古13‐1)に「一,一祝分」として「田地一町〈九月九日御祭料足〉六箇庄在之」と見える。下って「八代日記」天文7年7月19日条には「隈庄ヨリ六蚊ニ動候」とある。なお,安永については,鎌倉期と推定される年月日未詳の久我家領目録(久我家文書1)には,「砥川 木崎 安永」が久我家領として記載されているが,詳細は不明。荘域は,現在の嘉島町から益城【ましき】町・熊本市の東部を含む飛地の集合と推定され,地域的にまとまった荘園ではなかったと考えられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7454674
最終更新日:2009-03-01




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