ケータイ辞書JLogosロゴ 赤松村(中世)


大分県>国東町

 戦国期に見える村名。赤松之村とも見える。豊後国国東郡国東郷のうち。天文18年正月12日の豊後国国東郷大工職覚書に,惣大工持分として赤松と見えるのが初見(今富文書/県史料10・25)。天文19年3月,国東地方で領主化した田原親実(親宏)は,溝部神五郎に赤松を安堵している。そのうち鞍打については別人(溝部山城守か)に安堵する約束をし,同月14日その旨を道中が溝部山城守に報告している(後藤敏宏文書/大友史料19)。天正6年の大友勢の日向侵攻の失敗を機に,田原親宏は大友惣領家と対立し,ついに養子親貫【ちかつら】が叛乱を起こすが,大友宗麟の二男親家が田原の名跡として国東郷に入った。終見史料は天正8年と推定される3月25日の田原親家の感状で,田原親貫とともに反乱を企て,赤松村に本陣を敷いた一味討伐を内容とする。なお,この感状は田原氏の重臣萱嶋兵庫助に宛てたものである(萱嶋文書/大友史料25)。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7454757
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ