ケータイ辞書JLogosロゴ 秋吉名(中世)


大分県>杵築市

南北朝期〜室町期に見える名【みよう】の名豊後国速見【はやみ】郡八坂【やさか】下荘のうち現在の杵築【きつき】市の北台から以北の台地および高山川の河岸の低地一帯かと推定するが,正確な現在地比定については,文書上の地名を現地調査によって比定し,確定する以外はない建武2年11月の伴(秋吉)忠義八坂下荘内秋吉名畠屋敷配分状に,「豊後国八坂下庄内秋吉名畠地屋敷分状事」とあるのが初見(秋吉文書/大友史料5)秋吉忠義(忠氏と改む)は祖父盛氏から秋吉名を譲与されたらしいが,建武2年放蕩をし,父の死亡により祖父浄願(盛氏,のち盛幸と改む)が所領を没収し,中分してその半分のみを与えたこれが初見文書の内容この秋吉名名主職は,建武2年4月15日浄願と忠義(忠氏)に宛てられたものであるが,年貢などの未進のため欠所して忠氏の叔父盛基に与えられたしかし両人が歎願したので,康永元年7月17日に還補されている(同前6)貞和3年6月26日の八坂下荘内秋吉名戸次方田畠拝付案は,浄願分が三子能房に譲られたものここに「戸次方」とあるのは,浄願を「称戸次」したとあり,浄願その人に他ならない(秋吉系図/県史料10)年未詳八坂下荘秋吉名当知行・押領分坪付注文によると,相当の田数が竹中殿に押領されている(同前10)康永元年1月,秋吉名主忠氏と薬丸名主能房は,薬丸・秋吉両名田畠屋敷山野荒野塩浜などの各半分宛が,戦乱その他で文書が紛失したので,両者和談して以前の相続分を確認し,地頭木付親直の御判を申請し,開発は半分宛領知することを定めている(大友史料9)浄願から相伝した能房は,子親宣に譲り,親宣は多病で木付頼直の女(安岐女房という)を養女として所領を譲り,秋吉忠氏の弟貞泰の子能泰にめあわせたのち能泰は秋吉忠氏の養子直俊の女(妹という)を,妻安岐女房が養女にしていたので,所領を相伝した秋吉忠氏も嫡子忠吉が応安元年8月7日箱崎で戦死(21歳)したので,木付頼直(入道広輔禅門)四男親直(安岐女房の弟)をその女にめあわせ,親直を直俊と改めさせ所領を譲ったらしい応永4年3月貞泰(忠氏弟)の女武母の夫松行入道妙居は,秋吉・延道・守末半名田畠山野塩浜等の御恩地を,妻武母に譲っている守末半名は秋吉能泰・同正泰が買得したとしているが,秋吉・延道両名はどうした経路で松行妙居の知行となったか未詳(大友史料9)応永5年藤原(秋吉)直俊は,薬丸・秋吉両名各半分を木付頼直(広輔)のはからいとして直俊に宛行われたが,安岐女房の養女妹は自分の子であるから,一期の後は半分を返し,半分はおととい(兄弟)が折中して知行せよと契約状を書いている(秋吉文書/大友史料9)享徳3年10月8日の秋吉・薬丸両名浮免坪付注文に連署している能安と直泰は,前者は薬丸泰親の子能安,後者は秋吉直俊の孫直泰で,この両名は半分あて秋吉・薬丸両氏に相伝されたらしい(同前11)室町期と推定される2月28日の秋吉頼泰契約状に,「秋吉各田之事,三郎四郎殿(房泰)依無力,一切大さうへ被預候」とあるのが終見であるが,この頼泰は先の直泰の甥であり,依然として相伝されていることがわかるただし,これはその父三郎四郎房泰が無力によって,秋吉名を大さう(大左右)に預けて永代打ち渡したが,辛うじて子頼泰が請け返したしかし頼泰が作をしない時は,木付親忠の計らいとすると定めている(秋吉文書/県史料10)おそらく木付氏の領有に帰したものであろう無年号の秋吉名竹中殿押領分注文によると,当名には石屋里・田渡里・田嶋里・金浜里・中間里・八代里などがあり,一坪・二坪・三坪・四坪・七坪・九東・十坪・十二坪・十五坪・廿三坪などの条里の痕跡が顕著である(同前/県史料10)これは現杵築市の北を流れる高山川の河口付近のデルタと思われる石屋里の中に田渡里・田嶋里・金浜里があるので,果たしてこれが条里制の里に当たるかどうかは,今後の研究課題であるなおこれと一連の秋吉名当知行分坪付注文には,しを田・しを入・木付河そい・木付市前などの地名があり,現地比定に不可欠の史料近世の村名は明瞭でないが,杵築藩領宮司村はその中心部であろう
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7454777
最終更新日:2009-03-01




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