綾垣名(中世)
南北朝期に見える名【みよう】の名。綾垣村ともある。豊後国玖珠【くす】郡古後【こご】郷のうち。観応2年11月21日の足利直冬下文案に,直冬が野上資親に当名以下を恩賞として宛行っているのが初見(大友家文書録/大友史料7)。当時綾垣掃部允・同清左衛門尉跡とあり,もともと豊後清原一族の綾垣氏の本領であり,同氏の名字の地として発展していたことがわかる。直冬没落後は,再び綾垣掃部允の領有に帰したらしいが,永和元年9月2日足利義満は,他の豊後国内所領とともに,同村地頭職を大友親世に勲功の賞として宛行っている(大友文書/同前)。永徳3年7月18日の親世所領注進状にも,「同国玖珠郡綾垣村」として守護領中に記されているので,大友氏の直轄領として存続したことがわかる(同前)。その後,年未詳6月2日の文書では親世は,綾垣名土貢20貫文の下地を,野上大和守に兵粮料として預けている(前田家蔵野上文書/同前)。これが同名の終見である。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7454843
最終更新日:2009-03-01