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- 荒瀬村(近世)とは
「荒瀬村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 荒瀬村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 荒瀬村(近世) 江戸期~明治9年の村名筑後国御井郡のうち筑後川中流右岸,旧流筋に面する地で,北に支流宝満川が流れるもと筑後川旧流は当村付近で大きく湾曲し,河中に州を形成し,これが瀬をつくっており,地名もこれに由来するはじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領五郎丸組に属す村高は,「元禄国絵図」244石余,「在方諸覚書」の古高134石余「天保郷帳」「旧高旧領」ともに282石余文化4年には畑田9町4反・畑22町・居屋敷4反6畝(農政農民史料集)用水は村を流れる思案橋江湖による北部に筑前への脇街道と肥前街道の分岐路があり,肥前国水屋村との境をなす筑後川(新宝満川)に歩渡しがあった筑後川の河岸も設けられ対馬藩肥前田代領の米などはここの舟を利用して筑後川口へ運ばれた明治9年宮瀬村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 荒瀬村(近世) 江戸期の村名松浦郡のうち松浦川の支流徳須恵川上流域に位置するはじめ唐津藩領,慶安元年幕府領,同2年以後は唐津藩領畑川内組に属す元和検地時は松村伊右衛門の知行地があった(東松浦郡史)「慶長国絵図」では,花房・波多川・真手野・重橋に「荒瀬ノ内」の傍注があり,村高は1,013石余これら小村は「正保国絵図」ではそれぞれ分村しているしたがって村高は,元和検地高144石余(伊万里市史),「正保国絵図」では99石余,「天保郷帳」では155石余となる「松浦拾風土記」「旧高旧領」では当村名は見えず,長尾村の名が見える小村の分村後,荒瀬村は限定された地域を指し,のち長尾村とも称されたと想定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」