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- 宇土村(近世)とは
「宇土村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 宇土村(近世) 江戸期~明治12年の村名阿蘇郡のうち駄原村とも称する阿蘇谷の西部,黒川左岸に位置する地名は,阿蘇地方で崖崩れ地を「うと」と呼ぶことにちなむと思われる駄原の地名については,江戸中期まで草原の牧草地で,牛馬(駄)が放牧されていたことに由来するという熊本藩領村高は「旧高旧領」29石余「肥後国誌」では,駄原村と見え,内牧手永に属し,石高を記さず,「新地高,初ハ宇土村ト云シ歟」とある当村と折戸村と狩尾川村の小村浜川村を三久保と総称した明和年間頃,藩では堀平太左衛門の建策で藩士の入植などによる耕地の開拓を図った元治元年の内牧手永増補略手鑑によれば,宇土村新地の田畑反別3町余,竈数6・人数26,牛馬40(阿蘇町立図書館蔵文書)熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属明治8年宇土小学校開校,同11年の生徒数は男21・女11(肥後読史総覧),同校はのち内牧小学校に統合された明治12年三久保村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 宇土村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国直入郡家中郷のうち稲葉川支流久住川中流の左岸山間に位置する岡藩領北尾鶴【きたおづる】組に属す村高は「旧高旧領」91石余とあるのが唯一の所見深迫村小庄屋の支配を受けた(農民一揆)明治4年大分県に所属同8年福原村に合併,以来通称地名として存続現在の竹田市大字福原のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」