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- 押川村(近世)とは
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押川村(近世) 江戸期の村名婦負【ねい】郡長沢郷のうちはじめ加賀藩領,のち富山藩領呉羽【くれは】山南端の標高30~35mの台地に位置し西は山本村に接す村名は,昔山間にあった沼沢が大雨の際決壊して一時に奔出し,この付近一帯の地を押し流したことによりつけられたという(婦負郡誌)正保4年村高は田方411石余・畑方22石余,計433石余,新田高田方64石余・畑方3石余,計67石余(高付帳/県史近世下)元禄11年384石余(高辻帳/県史近世下)以後変わらず(天保郷帳)分村年度は不詳であるが,鎮守の八幡社を境に北を北押川村,西を西押川村と分村押川新村の親村である現在の富山市押川・北押川のうち |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」