ケータイ辞書JLogosロゴ 柏原村(中世)


大分県>荻町

 南北朝期〜室町期に見える村名。建徳2年以後は柏原名【かしわばるみよう】と呼ぶ。豊後国直入【なおいり】郡直入郷のうち。現在の荻【おぎ】町大字柏原に比定される。古代において柏原郷の中にあったものが,律令制の崩壊にともない直入郷に含まれるようになった。貞和3年9月20日の阿蘇惟澄注進状に「朽網郷地頭職,柏原村地頭職」と見えるのが初見(阿蘇文書/大友史料6)。正平17年(貞治元年)12月13日の菊池武光寄進状写に「奉寄進 阿蘇御嶽 豊後国直入郷柏原村事」とあり(同前/大友史料7),毎月の転読料として寄進したもの。柏原名は,建徳2(応安4)年7月5日の阿蘇御坊中宛ての年貢寄進状に「五貫文,柏原名本方建徳二年分」とあり(西厳殿寺文書/熊本県史中世史料2)一時南朝方勢力下の阿蘇御嶽の支配に属していたらしい。康暦2年12月8日の豊後直入郡直入郷内給人注文御恩帳に「柏原名新方」「柏原名」と見え,本方・新方合わせ貫高90貫であった(志賀文書/大友史料8)。給人として大塚隼人允・小田原八郎次郎・桑畑左衛門三郎・矢野新五郎・田尻弥七・矢野衛門五郎・堅田弥次郎・岩屋七郎・波野衛門太郎・首藤三郎らの名が掲げられている。大友軍が南朝側の菊池武光らを撃退して以来軍忠のあった国人衆であろう。柏原名はこの時期大友惣家の支配下に属したものと思われる。面積は,応永21年9月8日の豊後直入郡直入郷段銭結解状に「弐拾弐町七段大四拾歩」とある(同前/大友史料9)。(明応5年)大友親治預ケ状に,去る7月13日御所之辻合戦で戦死した小田原参河守秀房の子太郎へ軍功として「柏原名内伍貫」を与えているのが終見(大友家文書録/大友史料13)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7455861
最終更新日:2009-03-01




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