ケータイ辞書JLogosロゴ 蒲江浦(近世)


大分県>蒲江町

江戸期の村組名豊後国海部【あまべ】郡佐伯【さいき】荘のうち佐伯藩領現在の蒲江湾以南から宮崎県境までの県下最南海岸域の村により構成江戸初期の竹野浦組が享保5年米水津浦【よのうづうら】組・蒲江浦【かまえうら】組・入津浦【にゆうづうら】組に分かれ,下浦村と総称された泊【とまり】浦・河内【こうち】浦・猪串【いのくし】浦・坪【つぼ】・野々河内【ののかわち】浦・森崎【もりざき】浦・丸市尾【まるいちび】浦・葛原【かずらはら】浦・波当津【はとうづ】浦の9浦で当浦組を構成坪は「正保郷帳」「見稲簿」には見えない大庄屋は蒲江浦(泊浦)に在村村高は「正保郷帳」では8浦合計362石余,「見稲簿」ではいずれも高なし村と記す文化7年の家数526・人数3,314(温故知新録)同年3〜4月当浦域を測量した伊能忠敬は,「蒲江浦 都合九浦なり,舟掛上湊なり」と記す(九州測量日記)なお当組沖合に浮かぶ深島は,享保6年赤木【あかぎ】村(現直川村)の百姓4軒・16人により開発がはじまったというが(蒲江町史),寛保3年同村15人の百姓を未進により同島に所替にして以来,藩の流刑地となった文化9年正月の百姓一揆で仁田原【にたはら】村(現直川村)の友八・上津川【こうづがわ】村(現本匠村)の沢右衛門・甚太郎・左市・助右衛門・半七が同島に遠島となった明治初期当村組は消滅
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7455936
最終更新日:2009-03-01




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