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- 白銀町(近世)とは
「白銀町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 白銀町(近世) 江戸期~明治11年頃の町名平戸城下職人町五町のうちの1町明治期以降には細工町とも俗称される(川祭関係文書)平戸城の南西,戸石川右岸に位置し,戸石川に架けられた石橋(白銀橋)を渡ると東西に町並みが連なっていた大工町・桶屋町・鍛冶屋町の各通りすべてが白銀町通りに交接していた町名は,金銀細工師が集住していたことに由来する元禄10年の平戸町年鑑により当町にかかわる職種を抽出すると,城下全体では研師6人(うち上々研2・上研1・中研2・値段未定1),鞘師17人(うち上値段5・中値段8・未定4),金具屋7人(うち上値段2・中値段5),花切并香炉箸屋2人・1軒,鏡研2人・2軒,錫屋1軒などが見え,この大部分が当町に居住していたとみられる同16年の御役所御手鑑には研屋3人・鞘師11人・金具屋4人・花切香炉箸屋2人・鏡研1人・刀脇指金具絵蒔物下絵書1人などが記載されている寛政4年の六町図添書には研屋2軒・鞘師3軒・金具師2軒・鏡研并ちきり細工1軒・鼈甲屋2軒・柄巻2軒・鋳物師1軒・合羽師1軒などとあり,古くからの職種が次第に減少し,新たに進出した細工師によって職種は多様化されている城下の本通りに最も近く,職人町の玄関口にあたる当町には,武具方支配・船作事方支配の住居や細工師の住居が多かったが,次第に鍛冶・大工・桶屋など一般職人が混在し,寛政年間頃には前者を上回っていた細工町と俗称されるようになるのは,このような町民構成の変化と無関係ではなかろう明治11年平戸町に属し,同年頃職人町の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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![]() | 白銀町(近世) 江戸期~明治22年の町名結城城下22か町のうち銀町とも書く町のほぼ中央の南側,北は御朱印堀に外接し,西は小袋町に接する御免地外構堀,俗称御朱印堀の外側で,地子免除の特権はなかった元禄4年の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳による間数は2町4間(赤荻和弥家文書/結城市史)宝永5年の結城町明細帳控によれば,家数85軒,うち2軒寺門前・番屋1か所,研鞘師1(田宮佐兵衛家文書/結城市史)宝暦5年の町村惣商人仲間議定連書帳では,16名の小商人がいた(本多新次郎家文書/結城市史)朱印高15石の時宗常光寺は,永仁5年本山2世他阿真教を開山とし,門前の露座の大仏は金仏様と称される町内一の金銅仏で,室町期に下野【しもつけ】佐野で鋳造されたという明治22年水戸鉄道の開通により常光寺前通りが駅通りと直結されてからは商店街として発展明治22年結城町結城の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 白銀町(近世) 江戸期~明治5年の町名江戸期は大坂三郷南組のうちもとは銀屋町(初発言上候帳面写/大阪市史5),明暦元年の水帳では白銀町と見える(南区志)元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によれば,家数19軒,役数22.5,うち無役数1.5(年寄・会所),年寄は伊勢屋弥兵衛「宝暦町鑑」に「九之助ばし通り丁,さかいすし少下より西ハ中ばし筋少上迄」の町とある天保2年の川浚いでは関町を掛り町とする七丁組に編成され,南米屋町とそろいの「木綿紅相桜花中形半天股引」の衣装で人足180人余を出した(摂陽奇観/浪速叢書6)明治2年大阪南大組に所属同5年大宝寺町中之丁となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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