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- 田平村(近世)とは
「田平村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 田平村(近世) 江戸期~明治9年の村名葦北郡のうち水俣川下流右岸の沖積地に位置し,水俣城跡西側に南北に集落が連なる水俣川沿いの沖積地に弥生遺跡があることから,当地には古くから水田があったことがうかがわれ,地名はこれにちなむものと思われるが,未詳熊本藩領村高は「旧高旧領」79石余「肥後国誌」によれば水俣手永に属し,高76石余で,天神社・地蔵堂がある地内の加藤神社は,もともと水俣の城代であった中村将監正師が加藤清正の死を悼み冥福を祈るために建立した法林山妙勝寺を前身とするもので,明治期に神社となったまた田平阿蘇神社は健磐竜命・阿蘇津媛命を祭神とし,氏子26戸(県神社台帳)明治7年蕨野村を合併熊本県,八代【やつしろ】県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属同年陣内村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田平村(近世) 江戸期~明治22年の村名豊後国直入郡長田郷のうち濁淵【にごりぶち】川の分流笹無田【ささむた】川上流左岸山間に位置する岡藩領植木【うえき】組に属す村高は「正保郷帳」66石余,うち田39石余・畑26石余,柴山がある「見稲簿」「天保郷帳」同高,「旧高旧領」166石余村位は上小庄屋がおかれ,安永7年加兵衛がこれをつとめた横目は太左衛門(農民一揆)真宗東本願寺派応現寺がある入草村・山田村・小高野村・田嶋【たしま】村は当村の枝村(豊後国志)明治4年大分県に所属同8年植木村となる以来通称地名として存続現在の竹田市大字植木のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 田平村(近世) 江戸期~明治8年の村名美濃国郡上【ぐじよう】郡のうちはじめ郡上藩領,のち元禄6年に井上正岑が弟正長に分知したため旗本井上正長氏の知行地となる正徳2年からは正長の転封により幕府領となる村高は「正保郷帳」38石余,「天保郷帳」「旧高旧領」共に98石余明治4年岐阜県に所属同6年村明細帳の戸数21・人口111,馬8匹鎮守は白山社同8年三庫【みくら】村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」