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- 宮永村(近世)とは
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![]() | 宮永村(近世) 江戸期~明治初年の村名筑後国山門【やまと】郡のうち沖端川下流左岸に位置する地名の由来は,平安末期に当地を拓いた宇都宮一族宮永氏にちなむか柳川藩領宮永組に属す文禄4年12月1日の筑後国知行方目録には「〈宮永〉築籠村」と見え,620石2斗2升とある村高は,「天保郷帳」4,286石余,明治元年高辻帳2,567石余地内には立花宗茂夫人の誾千代姫の別居所のあった宮永様,その一部にあった馬場にちなむ馬場小路,中世後期に鳥巣氏が居住していた鳥巣分,同氏の本家のあった地の本家,その東の平安期の干拓地である二丁方(潟),蒲池氏の鳥飼の地であった雁喰,元禄年間に仙台から種馬30疋を移してつないだ一本松などがある元禄年間,天台宗感応院が玉淋坊によって開かれ,最勝院法印豪閑の隠居所となるなお,豪閑の墓が同所にある文政年間頃,韋駄天を祀った小社が雁喰にあり,同所には馬頭観音堂がある築籠村新田の本土居上にあった竜神宮に当村から民俗芸能の風流が奉納されていた江戸期から実質的には2か村になっていたとも思われるが,明治初年上宮永・下宮永の両村に正式に分村 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 宮永村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」