- JLogos検索辞書>
- 四日市村(近世)とは
「四日市村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
![]() | 四日市村(近世) 江戸期~明治10年の村名伯耆【ほうき】国会見【あいみ】郡のうち米子平野中央部,日野川とその支流法勝寺川の合流地点に位置する古来交通の要衝で,また戦国期には戸上城の城下町的性格を有しており,地名の由来は市場が開かれたことにちなむ鳥取藩領村高は,拝領高194石余,「元禄郷村帳」799石余,「天保郷帳」194石余,「元治郷村帳」237石余,「旧高旧領」354石余元禄の本免は4.7,「元治郷村帳」の物成は67石余戸口は,「伯耆志」67戸・308人,「文久3年組合帳」67戸枝郷に十日市村(弘化3年東千太【ひがしちた】村と改称)・千太村・上豊田村・下豊田村・古川村があったが,千太村・上豊田村・下豊田村はそれぞれ享和3年に新田村として分村し,古川村は享和3年地先新田として幕府に届出,天保5年新田村として分村,また十日市村は享和3年新田として幕府に届出,弘化3年に分村した「元禄郷村帳」と比べて「天保郷帳」の村高が激減するのはこのためである集落はもとは日野川沿いの平地にあったといわれ,中世末期の度重なる日野川の氾濫によって丘陵地へ転住する者が多くなり,一時衰退したといわれる戸上城の廃城の際には城下町の住民の多くは米子へ移住し,現在の米子市四日市町を形成したという日野川には渡船場があった(藩史5)「伯耆志」によれば,隣村へは東の東千太村へ日野川越えで5町,西の青木村へ5町,北の観音寺村へ12町,南は山市場村と接するまた,産土神は馬場村にある八幡宮と日吉津【ひえづ】村にある太神宮で,地内には小祠6があり,寺は曹洞宗人楽山同慶寺があり,米子総泉寺の末寺で,本尊は観音,寺領高1石6斗余同慶寺は元弘3年瓊子内親王の伯父歓山同慶によって建立されたといわれ,はじめは天台宗であったがのち改宗した明治4年鳥取県,同9年島根県に所属明治初年千太村を合併同10年山市場村と合併して福市村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 四日市村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 四日市村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 四日市村(近世) 江戸期の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」