ケータイ辞書JLogosロゴ 県荘(中世)


宮崎県>延岡市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。臼杵郡のうち。現在の延岡市恒富・岡富・出北あたり一帯にあたる。建久8年「日向国図田帳写」に,宇佐宮領1,913町のうちとして「県庄百三十丁,右桕杵郡内,地頭故勲藤原衛門尉(左衛門尉カ),不知実名」と見える。その後応永28年の「五郡田代写」に「県庄百三十町」,天文2年の宇佐宮領注文(到津文書/大分県史料24)に「県庄百三十町」と見えるが,これらはいずれも建久図田帳段階の田積に拠ったものであろう。建久図田帳に見える地頭故勲藤原衛門尉とは,工藤祐経もしくはその子伊東祐時と考えられている。「日向記」によれば,工藤祐経は建久元年正月に日向の地頭職に任じており,その所領のうちに県荘80町があったという。さらに,祐時の所領のうちには県荘120町があり,諸県荘450町・田島荘95町・富田荘80町と並んで「四所荘」と称された。その後,祐時が死んだ建長4年前後に伊東氏の一族が日向に移住し,県荘は富田荘とともに祐時七男祐景を祖とする門川氏の所領となったと伝えている(日向記)。しかし,南北朝期になると,当地は田部姓土持氏の勢力下となったらしい。田部系図によれば,暦応2年,南北朝争乱で北朝方についた恩賞として県荘半分が土持氏に与えられたという。また,建武5年3月13日には,畠山義顕が土持宣栄に対し,「当庄軍勢」を率いて国富荘河北に馳せ向かうよう催促しているが(土持文書/南北朝遺1147),この「当荘」とは県荘のこととされている。土持氏の一流が県に本拠を置いた時期は,なお諸説あって確定できないが,南北朝期のこととして大過ないであろう。「山田聖栄自記」によれば,「(島津)元久之御代山東・河北・宮崎・田島・木脇・河南悉土持方三人,阿県・岡富・財部此面々一味ニ成而奥州元久ニ被申入」とあって(鹿児島県史料集7),応永年間前後には県土持氏が当地に確固たる地歩を築いていたことがうかがえる。以後,県土持氏は井上城・西階城・松尾城と居城を移し,豊後大友氏・日向伊東氏・薩摩島津氏など諸勢力の間で微妙にバランスをとりながら,土持諸氏の宗家的立場に立って成長,戦国期には耳川以北最大の勢力にのしあがった。しかし,天正5年伊東義祐が島津氏に敗れて豊後へ逃走すると,翌6年大友氏が日向へ進行,まず県土持領が攻撃の対象となり,4月松尾城は陥落,土持親成は捕らえられ,その子高信は島津氏のもとへのがれたという。いったんは大友氏が土持領を占領したのであったが,同年11月,高城・耳川の合戦で大友氏は島津氏に壊滅的な敗北を喫し,ここに日向一円は島津氏領国に組み入れられることになる。島津氏は県の地頭として土持親成の嫡子久綱を松尾城に入れたが,島津領国時代の当地については,宮崎地頭上井覚兼の「上井覚兼日記」に「県」が散見される。それによれば,当地は島津領国の北境に位置する交通・軍事上の要地であり,南に位置する門川・日知屋・塩見の3城と連動して北辺を防備する任にあった(天正12年5月29日条・同年8月16日条・同13年8月6日条・同年8月14日条など)。しかし,天正15年豊臣政権に島津氏は屈服し,県は高橋元種に宛行われる。高橋氏は延岡城を築いて慶長8年松尾城からこれに移り,「中世の県」は「近世の延岡」へと移行したのだった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7459585
最終更新日:2009-03-01




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