ケータイ辞書JLogosロゴ 猪野見(中世)


宮崎県>国富町

南北朝期に見える地名日向国諸県【もろかた】郡のうち建武3年2月7日土持宣栄軍忠状および同年2月10日土持宣栄軍忠状案(土持文書/日向古文書集成,南北朝遺408・414)によれば,建武3年正月23日足利氏勢力と分かれて南朝方として活動した伊東祐広は,八代の宿所を焼き払われて「猪野見城」にたてこもっている北朝方に参じた土持宣栄は,伊東祐広の攻略の合戦に参じ,正月29日猪野見城攻めに加わり,2月1日額に傷を負い,また息子の時栄は,2月3日右膝に2か所の傷を負っている猪野見城は現在の国富町八代南俣の丘上に八代城と4kmほど隔てて築かれ,別名を「高城」と呼んだことが知られている(城郭大系16)当地は,江戸期には元禄11年「日向国覚書」に「目黒村内 井野見村」「上床村内 井野見村」と2か所に見えるただし,目黒村は八代南俣村のうちの地名で,上床村は八代北俣村のうちの地名であり,江戸期の井野見は目黒村と上床村,すなわち八代南俣村と八代北俣村の両村にまたがっていたといえようなお,明治13年調査の「日向地誌」には八代南俣村の字地の1つとして猪見と記載され,現在は国富町八代南俣のうちに行政区名・字名として井水【いのみ】が残る
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7459702
最終更新日:2009-03-01




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