ケータイ辞書JLogosロゴ 海北村(近世)


宮崎県>串間市

江戸期〜明治8年の村名日向国那珂郡のうち市木川下流域に位置し,東は日向灘に臨む高鍋藩領福島院のうちの市木川北郷に属し,市木川北郷庄屋の管轄下にあった村高は,寛文4年「日向国之内秋月領地覚」(隈江家記/川南町史),元禄11年「日向国覚書」,「天保郷帳」,嘉永7年「領地郷村高辻帳」(日向国史下)ではともに162石余,「旧高旧領」では377石余村内は数組に分かれ,組ごとに組頭が置かれていた年貢上納は実質的には市木村と合わせ一村として行われていたらしい(内務省諸願伺届/県古公文書)郡元御仮屋(西方村)から4里5町20間の位置に札辻があったまた海北には番所が設置されていた(日向国那珂郡福島院之内秋月長門守領内地図)また地内には里牧(百姓牧)1か所があった交通は飫肥【おび】藩領南郷贄波【にえなみ】に抜ける外之浦通りが主な往還であった明治4年高鍋県,都城県を経て,同6年宮崎県に所属同7年の村況は,反別21町2反余,戸数23・人員109(内務省諸願伺届/県古公文書)同8年市木村の一部となる(日向地誌)なお,この市木村への合併は,市木村・海北村・六郎坊村の3か村がともに村域が錯綜して地券発行実地調査が困難であること,近世においては年貢上納などは事実上市木村としてとり行っていたことなどを理由とするという(内務省諸願伺届/県古公文書)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7459763
最終更新日:2009-03-01




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