ケータイ辞書JLogosロゴ 大井手村(近世)


宮崎県>高城町

 江戸期〜明治22年の村名。諸県郡のうち。鹿児島藩直轄領。高城郷に属す。村高は,寛文4年「日向国諸県郡村高辻之帳」,元禄11年「日向国覚書」,「天保郷帳」ではともに2,062石余,「旧高旧領」では1,558石余。高城郷の地頭仮屋の所在地。嘉永6年成立の「御道中記」によれば,当村の規模は東の山之口境より西の穂満坊村境に至るまで17町44間,南の山之口境より北の穂満坊境に至るまで31町14間,高頭1,557石余,村況は「桜木村に同じ,乍然耕作に就ての習俗は桜木村に勝り候へは,労時といへとも農の時を失さる人気なり,土地は沙真土にして,諸穀物は勿論,煙草木綿等うゑ而宜し,蕃薯類を植へ,或は茶其他有用之草木を仕立て,山野も亦黒墳之土地多し,されとも牛馬農具他日に倍し候ハバ,弥人気相竸往々戸口相増可申候」とあり,竈数43・人数174,現用夫39人,門数38,牛21(牡牛13・牝牛8),駒39。「三国名勝図会」によれば,神社は春日大明神社・霧島六所権現社,寺院は春日山三摩地院東竜寺がある。春日大明神社は天徳2年の勧請で,高城郷の総鎮守であった。社司は末原氏,別当は東竜寺という。霧島六所権現社は応永25年の建立という。東竜寺は天徳2年春日大明神社の勧請とともに,その別当として建立された天台宗寺院であったが,のち伝灯阿闍梨俊賀が真言宗に改め開山となった。同寺は大乗院の末寺で,本尊は薬師如来という。明治4年鹿児島県,都城県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同年北諸県郡に属す。「日向地誌」の著者平部嶠南が諸県郡を調査したのは明治13年で,同書によれば,当村の規模は東西約17町・南北約31町,東は山ノ口村,西・北は穂満坊村,南は花ノ木村,西南は富吉村・桜木村と接し,宮崎県庁からの里程は西へ約9里16町,地勢は「闔村大半平坦,東北山ノ口村界ニ僅少ノ草岡ヲ負フ,運輸便ナリ,芻秣ハ僅ニ自給スト雖モ,薪炭ハ隣村ニ仰ク」と見え,地味は「其田六分砂土,四分黒ソミ土,処々赤黒ホラ土亦雑ル,其質中ノ中,畑ハ大半赤黒ボラ土,砂土モ亦雑ル,其質中ノ上,水利ハ便ナラス,五六月ノ間余雨降ラサレハ必ス旱災ニ罹ル,夏月雨集レハ川涯ノ田ハ水害ヲ免レス」とある。また,税地は田135町余・畑256町余・宅地24町余・切換畑34町余・山林38町余・荒田3町余・荒畑21町余・芝地2町余・藪16町余などの計533町余,無税地は計5町余,官有地は山林162町余・芝地11町余などの計174町余,貢租は地租金2,083円余・雑税金625円余の計2,708円余,戸数191(うち社2)・人数812(男412・女400),牛58・馬152,村内の字地別戸数は大井手15・松河馬場21・引地馬場27・立喰13・春日馬場18・大窪22・宝光29・天神10。学校は地内桜馬場に人民共立小学校があり,生徒数は男39・女6。戸長役場も桜馬場にあり,神社は桜馬場に郷社高城神社,春日馬場に村社春日神社があった。民業は皆農業に従事し,農間には工業に13戸,商業に6戸,牛馬売買に4戸が従事した。物産は,糶300石・楮皮150匁・茶500斤・椎茸9,000斤・焼酎20石。さらに,川は東岳川が流れ,用水は須田木溝・大堰溝・二本松溝・三手井溝・大迫溝・大曲溝・前川溝・増町溝を利用し,湖沼に松山上ノ池・松山下池があり,道路は鹿児島街道が通り,古跡として高城城跡・東竜寺跡が記される。明治21年の戸数194・人口921,反別は田134町余・畑300町余・宅地23町余・池沼4町余・山林249町余・原野19町余・雑種地15町余の合計747町余,諸税および町村費の納入額は国税2,108円余・地方税374円余・町村費51円余,村有財産は山林1町余などがあった(郡行政/県古公文書)。明治22年高城村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7459808
最終更新日:2009-03-01




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