ケータイ辞書JLogosロゴ 蒲牟田村(近世)


宮崎県>高原町

 江戸期〜明治22年の村名。日向国諸県【もろかた】郡のうち。鹿児島藩直轄領。なお,慶長5年の島津家久願文に「日州高原之内蒲牟田村五佰八石奉寄進」,慶長20年3月20日の島津家久社領寄進目録に「高五百弐拾壱石六斗弐升八合 日州高原蒲牟田村」(霧島神宮文書)とあり,近世初頭には霧島神宮社領であった。高原【たかはる】郷に属す。村高は,寛文4年「日向国諸県郡村高辻之帳」および「天保郷帳」ではともに508石余,「三州御治世要覧」では476石余,「旧高旧領」では1,268石余。元禄11年「日向国覚書」には村名は見えるが,村高は記載されていない。また,「三州御治世要覧」の石高が表高を下回っている理由は明らかでない。天保7年の調べでは,門数は13,石高1,129石余,この内訳は百姓請取高209石余・庄屋請取高17石余・郷士請取高58石余・寺門跡高40石余・郷士屋敷高17石余・野町屋敷1石余・寺社屋敷高3石余・御蔵入高135石余・樺山助之進抱地1石余・郷士抱地642石余とある。郷士抱地という高原郷士の自作自収地が非常に多く,御蔵入高も百姓請取高も少ないのが特徴である。また野町屋敷が見えるように,天保7年段階で野町が形成されている。「西諸県郡誌」は村内の門数13として勝吉門・福元門・東門・田中門・外村門・鳥集門・中村門・増田門・内村門・今西門・西門・吉元門・田之上門を挙げる。当村は霧島山の影響を大きくうけ,たびたびその噴火の被害を被ったが,とくに享保元年からの大噴火では当村は1尺余の火山灰で埋まったと記録される。また,霧島神の信仰に関する遺跡も多く,「三州御治世要覧」には「霧島山東御在所(現在の霧島東神社)座主東光坊格護,祭礼九月九日」「一,霧島六所権現(現在の狭野神社)狭野神徳院格護,祭礼九月二十九日」「天台穴太流東叡山末寺霧島山錫杖院花林寺,天台」のほか「東光坊」(祓川はその門前という),「神徳院」(狭野はその門前という)のほか,花堂には「坂元寺 天台」などがあったとしている。また村境に当たる霧島山中の御池【みいけ】について「霧島山之池也,一里廻り七湊有,東光坊之近辺故,高原之御池ト申候得共,過半都城之内ニ掛リ候」としている。「三国名勝図会」によれば,孝昭天皇の時に,神武天皇降誕の霊跡に創建されたという狭野大権現社,高城郷東霧島神社の奥の宮と称す霧島東御在両所権現社があり,ともに霧島権現六社の1つ。狭野大権現社は高原郷の総鎮守で,瓊瓊杵尊を第1座とし,ほかに彦火火出見尊・葺不合尊・木花開耶姫・豊玉姫・玉依姫の5座を祀り,境内には神武天皇を祀る東掖宮・西掖宮・四所宮・本地堂があり,例祭は2月初酉日・9月29日・11月中酉日,社司は押領司氏,別当は神徳院,文暦元年12月28日の霧島山大噴火で社殿を焼失し,当社と別当寺を高城郷東霧島【つまぎりしま】村勅詔院の地に移し,慶長17年社寺ともに旧地の現在地に復したといわれ,享保初年の大噴火でも大きな被害をうけたと記す。霧島東御在両所権現社については,祭神は伊弉諾尊・伊弉冊尊の2座,ほかに天照大神・忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・葺不合尊・神武天皇の6座を同殿とし,東とは西霧島に対し,御在所とは御座所のことで伊弉諾尊・伊弉冊尊の行在所であったことにちなみ,両所権現とはこの2尊を祀ることに由来するとある。境内には西掖宮・狗人両社・本地堂があり,例祭は正月8日・9月9日・11月初酉日,社頭に寛陽公の筆になる東霧島山の額が掲げられ,公の名と印章もある。社司は押領司氏,別当は錫杖院,当社も霧島山の噴火でたびたび被害をうけたという。また「三国名勝図会」には当村の寺院として天台宗霧島山仏華林寺神徳院,真言宗霧島山華林寺東光坊錫杖院,神徳院末寺の天台宗坂本寺,錫杖院末寺の真言宗高原寺があると記される。神徳院は,武蔵国東叡山の末寺で,狭野大権現の別当職を勤め,当時の寺領は265石余。本尊は阿弥陀如来で,開山は慶胤上人といい,開山の時期については欽明天皇の時とも敏達天皇の時ともいう。その後400年を経て性空上人が再興し,支坊360宇,寺領3万石を誇ったというが,文暦元年の霧島山噴火で焼失し,高城郷東霧島村勅詔院の地に移り,慶長17年旧地に復したと伝える。錫杖院は鹿児島城下大乗院の末寺で,霧島東御在所両所権現の別当職を勤め,本尊は高さ2尺の座像である千手観音大士。康保3年性空上人の創建になると伝え,はじめは天台宗であったが,天永3年および文暦元年の霧島山噴火で焼失してその後廃寺となり,文明18年円政法印によって再興され真言宗になった。享保初年の大噴火でも火災にあった。寺領134石余とある。明治4年鹿児島県,都城県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同年北諸県郡,翌17年からは西諸県郡に属す。明治5年地内前野に狭野小学が創立。同12年麓村に置かれた麓村外三ケ村戸長役場の管下となる。「日向地誌」の著者平部嶠南が諸県郡を調査したのは明治13年で,同書によれば,村の規模は東西約2里・南北約1里15町,東は前田村,西は大隅国曽於郡襲山郷田口村,南は西岳村,北は広原村,東北は麓村,西北は細野村と接し,宮崎県庁からの里程は西へ約13里16町,地勢は「西ニ霧島山ヲ負ヒ,南長尾岡ヲ擁シ,東南ニ平地水田アリ,北ハ原野連綿,運輸便ナラスト雖モ薪芻饒足,生計艱ナラス」と見え,地味は「其田大約浅黒ニガ土,其質下ノ上,畑ハ大約焼砂礫土,其色浅赤,其質下ノ中,水利ハ便ナリ,水害モ亦少ナシ」とある。また,税地は田252町余・畑245町余・宅地29町余・不定田9町余・切換畑50町余・山林25町余・原野48町余・藪38町余の計699町余,無税地は計3町余,官有地は山林285町余・原野151町余・芝地4町・藪10町余の計456町余,貢租は地租金2,141円余・雑税金626円余の計2,767円余,戸数326(うち社7)・人数1,390(男717・女673),牛335・馬520,村内の字地別戸数は狭野50余・祓川35・湯ノ元25・蒲牟田90・花堂70。学校は地内二ノ谷に人民共立小学校があり,生徒数は男26。神社は祓川に霧島東神社・水神社,狭野に狭野神社・猿田彦神社,中村に鋒神社,高松に高松水神社,越平に港水神社がある。民業は皆農業に従事し,農間には工業に11戸,商業に3戸,製紙業に1戸,医業に1戸,牛馬売買に5戸が従事した。物産は,駒20頭・犢10頭・猪鹿20頭・鶏1,200羽・糶400石・大豆5〜6石・茶200斤・煙草250斤・櫓木400丁・杉板3,000坪・樽丸800丸・紙800束・鶏卵1万5,000顆・麹15石・蜂蜜100斤。さらに,川は高崎川が流れ,用水は山下溝・高松溝・二ノ谷溝・赤池溝・門石溝・水天宮溝を利用し,湖沼に雌池があり,道路は大窪往還が通り,古跡として神武天皇降誕跡・神徳院跡・錫杖院跡・阪元寺跡が記される。明治18年の当村の就学者数54・不就学者数55で,就学率は49.5%,生徒は全員男子であった(高原町史)。同21年の戸数302・人口1,425,反別は田261町余・畑295町余・宅地32町余・池沼6町余・山林343町余・原野210町余・雑種地1町余の合計1,151町余,諸税および町村費の納入額は国税2,240円余・地方税838円余・村費151円余・協議費26円余,村有財産は耕宅地6畝余などがあるのみ(郡行政/県古公文書)。明治22年高原村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7459967
最終更新日:2009-03-01




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