ケータイ辞書JLogosロゴ 上田島荘(中世)


宮崎県>佐土原町

 鎌倉期〜南北朝期に見える荘園名。日向国那珂郡のうち。正和2年8月5日伊東某袖判宛行状(大光寺文書)によれば,上田島荘蓮光寺の僧遠江房長慶が新田【にゆうた】郷の僧能観房を夜討・殺害したため,上田島荘内蓮光寺の住僧田と屋敷を没収し,新たに院主良海に宛行っている。この文書は代官沙弥某と公文沙弥某の連署の形式をとり,伊東氏の証判を得て成立しており,上田島荘の地頭伊東氏の在地裁判権を発現した文書として興味深い。南北朝期の建武元年10月8日良海譲状(伊与西福寺文書/日向国荘園史料1)には,良海は故伊東祐義から宛行われた「上田島庄内蓮光寺院主職并巨田宮供僧田」を円範に譲ると記しており,証判の主は伊東祐義かとみられる。また,鎌倉末期の元亨2年2月25日,伊賀房慶明は「日向国上田島庄内持福寺」の寺田6反,堂屋敷1か所,本尊の阿弥陀三尊,銅鐘1口を弓削道妙に直物30石で売却し,持福寺の院主職を弓削道妙の子孫弥房丸に譲っていることが知られる。この上田島荘を中心とする地域に勢力をもった伊東氏一族は,田島氏と呼ばれているが,正慶2年3月10日,伊東祐勝は子息金熊丸に「上田島庄の内」の祐勝知行分を譲っている。暦応元年11月7日,日向国国大将畠山直顕はこの金熊丸に「田島庄内堤村一分地頭職」を安堵し,また同3年8月9日には,金熊丸の申し出により「田島庄内堤村一分地頭職」を金熊丸に打ち渡すよう,伊東大和六郎左衛門尉に命じている。金熊丸は伊東顕祐と関係しようが(あるいは同一人物か),延文6年8月15日,顕祐の大光寺に寄進した地は「日向国上田島庄内堤村」と見えることから,田島氏一族は上田島の一分地頭職の立場にあったとみられる。康永4年12月12日,田島氏4代の伊東祐聡は「上田島庄大光禅寺」に対して平田等の田2町と畠1反を寄進し,氏寺である大光寺の保全に努めている。また祐聡は,貞和3年2月9日,長文房の上田島荘内の田地3町と屋敷1か所を安堵し,地子米等の宇佐宮御公事の勤仕を命じている。その後の大光寺については,正平14年の上田島荘大光寺取帳によれば,大光寺の門前に薬薗や大工薗が見え,薬草園や大工などの職人の居住地ができあがっていることをうかがわせる。延文6年2月18日,伊東顕祐は内丸にある田2反を母の見性の菩提を弔うために大光寺に寄進し,宇佐宮役を勤仕し,それ以外の課役は免除する旨伝えている。伊東氏一族田島氏が,宇佐宮への配慮を示しつつ,大光寺を氏寺として基盤におき,上田島の地に勢力を伸ばした様がうかがえる。その後,室町期の2月17日伊東祐連書状に,「東禅寺山の事,昨日定候間,悦喜仕候,就其者,上田島内寺内のうへとて候由承候間,少の事ハ寺内にも御あつけ遣候者,可然由存候処に,御書を下預候」と見え,大光寺と東禅寺との間に山堺相論のあったことが知られ,上田島大光寺の寺内とはいえ,東禅寺の方に預けるように取りなしている(以上,大光寺文書/日向古文書集成・日向国荘園史料1)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7459980
最終更新日:2009-03-01




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