ケータイ辞書JLogosロゴ 岸上村(近世)


宮崎県>高鍋町

江戸期〜明治4年の村名日向国児湯【こゆ】郡のうち「きしのえ」とも呼ぶ小丸川最下流の左岸,同川支流切原川の河口地域に位置する沿岸部は沖積低地をなし,北東部は標高50m前後の持田台地が連なる地名の由来については,古く新納【にいろ】院鎮守比木大明神の里回りの節に「きしのえ」と呼んだ家に立ち寄ったとの伝承があるが,おそらく小丸川あるいは切原川の川岸の台地に立地したことにちなむものと思われる高鍋藩領新納院持田郷に属し,新納代官の支配下にあった「日向地誌」の持田村の項には「日向国風土記及ヒ天正十九年日向国郡分帳ニ平田方百町トアリ他ノ村号見エス,正徳ノ頃郷村帳ニ至テ始テ岸上村・持田村・平田村ノ村号見ユ,左レハ中古以来本村ハ平田方ノ中ヨリ分レシト見ユ」とあるただし,当村など3か村の名はすでに寛文4年「日向国之内秋月領地覚」(川南町史)や「寛文朱印留」に見える村高は,寛文4年「日向国之内秋月領地覚」では467石余(567石余の誤りか,なお川南町史は4の箇所に5と注記している),元禄11年「日向国覚書」,「天保郷帳」および嘉永7年「領知郷村高辻帳」(日向国史下,峰ノ上村とあるが,岸ノ上村の誤記)ではともに567石余なお,「旧高旧領」には村名が見えず,当村は持田村のうちに含まれているものと考えられる年貢は定免とされ,明治2年改「高鍋藩文武職制戸口租税等調」に「免五ケ年平均三ツ三分」と報告されている(川南町史)年貢は本途物成(本年貢),小物成のほか,商・工・水産業などの営業税,臨時の課役献上に類する運上・冥加などの雑税があったまた,年貢米1石に付き口米4升,苫代銀が年貢米や大豆それぞれ1石に付き銀2分ずつ付加された(続本藩実録)さらに郷中納物として蕨縄・炭など168種類の現物納があり,百姓1戸ごとに萱莚・紺銭,15歳より60歳まで1人に付き薪1駄,11歳より70歳まで1人当たり山手銀1分などが賦課されていた「続本藩実録」には,文化13年に切原の百姓八兵衛忰惣次郎が病父孝行につき褒賞され,畠地物1俵を下付されたこと,文政元年7月14日に満水のため切原川の堤が横3間・長さ80間にわたって崩れたことなどが記録されている「日向地誌」によれば,持田村の項に見える字地のうち字切原(44戸),字禿ノ下(38戸)が江戸期の岸上村の村域であったという神社は,貞享3年「高鍋藩寺社帳」によると,地内切原に比木御幣下の観音を本地とする歳神大明神がある「日向地誌」には御年神を祀る村社美年神社とある宮越家には昔比木神社のお里回り巡幸の時に川船で切原川を渡り川岸の宮越家にあがって立ち寄ったとの伝承があり,昭和18年頃まで続いたというそして,川船から上がる時,つるにからまれて転び衣類が濡れたので,その「きぬはり」をしたことから切原の地名が生まれたという明治4年高鍋県を経て美々津県に所属同年持田村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7460050
最終更新日:2009-03-01




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