ケータイ辞書JLogosロゴ 桑野内村(近世)


宮崎県>五ケ瀬町

 江戸期〜明治22年の村名。臼杵郡のうち。延岡藩領。高千穂18か村の1村で,宮水代官所の管轄下にあった。天正18年黒田官兵衛に宛てた「竿前御改書上帳写」(矢津田文書)には,桑野内としてのちの「国乗遺聞」の三ケ所村と同じ村高が記されている。さらに,明治初年まで三ケ所村の庄屋の所在地であった兼ケ瀬も,慶長2年の正福寺棟札に「日州高知尾庄桑内郷蟹足村」と見えることから,慶長初年までは三ケ所は当村に含まれていたと考えられる。しかし,その後,江戸期の郷帳類などには当村の村名・村高は見えず,三ケ所村のみ記されている。寛永15年の島原の乱に際し高千穂18か村の庄屋惣代が行った陣中見舞に対して領主有馬氏が出した御礼状写(高千穂庄神跡明細記)に,三ケ所村庄屋善右衛門,桑野内村庄屋七郎兵衛とあり,また寛文年間の文書にも三ケ所村と桑野内村は別々に庄屋名が記されているので,実質的には寛永年間以前に三ケ所村と桑野内村の2か村に分かれ,郷帳類に見える三ケ所村の村高は桑野内村を合わせたものと推測される。おそらく,有馬氏時代には三ケ所・桑野内の2村であったが,牧野氏の「石高引継目録」において2か村合計の石高の村名として三ケ所村と記したものが代々引き継がれ,公的な村高帳簿に限り桑野内村の名が脱落したまま明治に至ったのであろう。村高は,三ケ所村として「寛永11年差出」(国乗遺聞)・元禄11年「日向国覚書」ともに719石余,延享4年「拝領諸村高帳」(日向国史下)も719石余とあるが,ほかに三ケ所村新田として43石余(うち前々より改出18石余)とあり,「天保郷帳」763石余,「旧高旧領」735石余。当村は東西に山を負う高原地帯にあり,また西は五ケ瀬川峡谷を挟んで阿蘇高原に接するので,水利の便が悪く畑作の村であった。延享4年の桑野内村覚帳(五ケ瀬町民俗資料館蔵)によると,本高260石余のほか無地高35石余があり,「右無地高三ケ所桑野内両邑之分前々ヨリ相知不申候」と見え,両村が混同していたことが知られる。また竈数102・人数968(男498・女470),牛29・馬36,「邑方ヨリ売出申品」として麻苧・茶,「万御蔵工品納之事」として上茶5斗2升・上苧700目・中苧14貫100匁・木附子4升5合・真綿756匁・漆3貫800匁が記されている。村内は上組と下組の2つの門に編成され,弁指2人が置かれていた。下組には有馬氏が藩主の時分から,藩の波帰の瀬番所が設置された。庄屋は土生にあり,元禄年間から明治期まで後藤氏が世襲した。神社は上組に二上大明神外宮・熊野三社大権現があり,二上大明神は有馬氏が藩主の時分に社領5斗が寄進され,江戸後期〜明治初年に下組に移転され桑野内神社と改称した。また熊野三社大権現は明治4年古戸野神社と改称され村社となった。寺院は上組に浄土真宗日融山光照寺がある。明治2年の高千穂世直し一揆の際は,田原・上野・押方・三田井・下野・河内と3日間にわたって郷中を荒らした百姓隊は,河内で延岡藩の鎮撫隊に押し止められたが,一部はさらに川を渡って桑野内村に入った。しかし,延岡藩の派遣隊や高千穂郷士隊が先まわりして桑野内にきており,ここで押し止められ,説諭されて解散した。明治4年延岡県,美々津県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。明治15年三ケ所村外一ケ村戸長役場に属す。同17年西臼杵郡に属す。明治8年赤谷に桑野内小学校を設置し,上組に分校を置いた。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治12年6月5日で,同書によれば,村の規模は東西約2里・南北約20町,宮崎県庁からの里程は北へ約39里9町,地勢は「三面郡巒ヲ負ヒ北ハ吐ノ瀬川ヲ帯ヒ肥後国阿蘇郡ニ接ス。闔境平地ナク岡阜高低唯薪芻ハ乏シカラズ。生計僅ニ給ス」と見え,地味は,田畑ともに土質下ノ上,麻・蜀黍・煙草の栽培に適し,水利は不便で時々干害にあい,山間の田は冷水が多く収穫が少ないという。税地は田20町余・畑181町余・宅地12町余・山林305町余・原野331町余・芝地63町余・藪270町余の計1,185町余,無税地は計3町余,官有地は山林5反余,貢租は地租金475円余・雑税金96円余の計572円余,戸数209(うち神社2)・人数984(男517・女467),牛215・馬403,村内の字地別戸数は土八重(土生)11・吐(波帰)6・下山9・鳥越11・麦ノ崎5・柿ノ尾12・栗ノ谷8・小半田9・興地19・赤谷5・黒板9・横通9・古戸野5・馬場9・陣9・三ケ村20・久保20・谷向19。学校は赤谷に人民共立小学校があり,生徒数は男25・女8。道路は隣村往還が通る。神社は村社として古戸野に明治4年までは熊野三社大権現と称した古戸野神社(祭神は速玉男命・事解男命・伊弉冊命),土八重に同年まで二上大明神と称した桑ノ内神社(祭神は諾冊2神)があり,古跡として同年に廃絶し,当時は説教所となった浄土真宗光照寺址,吐ノ瀬関址がある。物産は駒40頭・犢20頭・蜀黍200石・煙草5万斤・麻1,200貫・楮皮350貫・鶏卵3,000顆・椎茸20貫。民業は皆農業を営み,農間に工業に従事する者2戸・医者1戸・牛馬売買2戸がいた。村内の山として米ノ内山・枡形山・城山があり,川は吐ノ瀬川・三ケ所川が流れる。明治21年の人口982,反別は田20町余・畑181町余・宅地12町余・山林577町余・原野395町余・雑種地17町余の合計1,203町余,諸税および町村費の納入額は国税565円余・地方税271円余・村費176円余・協議費35円余(郡行政/県古公文書)。明治22年三ケ所村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7460139
最終更新日:2009-03-01




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